
第1部:俺は筋トレをやる
1. 硝子細工の心臓
オガワの心臓は、まるで極薄の飴細工でできているようだった。指先で少し突いただけで、あるいは強い風が吹いただけで、粉々に砕け散ってしまう。
「はあ……」
デスクの向かい側で、課長が深く溜息をついた。その音は、オガワの耳には巨大な台風の轟音のように響いた。 (なんだ? 俺、何かミスをしたか? さっき提出した議事録のフォントサイズが違っていたのか? それとも、朝の挨拶の声が小さすぎたか?)
脳内で警報が鳴り響く。思考は絡まったイヤホンのコードのように複雑怪奇にねじれ、解こうとすればするほど固結びになっていく。キーボードを叩く指が震えた。実際には、課長はただ昨日飲みすぎて胃が重いだけなのだが、オガワの世界では、それは「自分への失望の表明」という確定事項として処理されていた。
退社時刻を迎える頃には、オガワの精神はすり減った消しゴムのカスのようになっていた。 重い足取りでオフィスを出る。東京の夜景が滲んで見える。ビルの明かり一つ一つが、成功者たちの監視の目のように感じられ、オガワは首をすくめて歩いた。
「また明日も、あの空気の中で息をしなければならないのか」
その独り言は、濡れたアスファルトに落ちて、誰にも拾われずに染み込んでいった。
2. 鉄と汗の聖域
ふと、視界の端に強烈な蛍光色の光が飛び込んできた。 『24時間営業 入会金無料キャンペーン中』 ガラス張りの向こうには、ランニングマシーンの上でハムスターのように走り続ける人々や、何か重苦しい機械と格闘している人々の姿が見えた。
普段なら素通りする場所だった。汗臭そうで、野蛮で、自分のような人間が足を踏み入れれば、ライオンの檻に投げ込まれたウサギのように食い殺されると思っていたからだ。 しかし、今のオガワは、あまりにも自分の弱さにうんざりしていた。このまま家に帰って、安酒を飲んで、今日の課長の溜息を反芻しながら眠るだけの夜が恐ろしかった。
吸い寄せられるように自動ドアをくぐった。 ムッとした熱気。ゴムと機械油、そして人間の体臭が混ざり合った独特の匂いが鼻腔を突く。それは、どこか懐かしいような、生命の根源的な匂いだった。
手続きを済ませ、着替えてジムエリアに出る。屈強な男たちが、唸り声を上げながら鉄の塊を持ち上げていた。彼らの腕は丸太のようで、血管が古い木の根のように浮き上がっている。
(場違いだ。帰ろうか)
そう思ったとき、一台のチェストプレスマシンが空いた。誰もいないその席が、オガワを手招きしているように見えた。 おずおずと座り、ウェイトのピンを一番軽い場所に刺そうとして、見栄を張って三番目に刺した。
グリップを握る。冷たい鉄の感触が手のひらに伝わる。 息を吸い、前に押し出す。
「ぐっ……!」
重い。とてつもなく重い。 それはまるで、これまでオガワが抱え込んできた「不安」や「自己嫌悪」が物理的な質量を持って立ちはだかったかのようだった。 腕がプルプルと震える。小鹿の足のように頼りない上腕三頭筋が悲鳴を上げた。
(動け、動けよ!)
顔を真っ赤にし、歯を食いしばる。脳みその血管が切れそうだ。課長の溜息も、将来の不安も、今はどうでもいい。ただ、この目の前の鉄の塊を、元の位置に戻さなければ自分は潰される。
ガシャン。 ウェイトが戻った瞬間、オガワは肩で息をした。 苦しい。腕が痛い。 だが、その苦痛の中に、奇妙な爽快感があった。限界まで張り詰めた弓の弦が、一気に解き放たれたような感覚。
頭の中が真っ白だった。あれほど絡み合っていた思考のノイズが、完全に消え失せていた。 「……気持ちいい」 オガワは汗だくの顔で、ニヤリと笑った。それは久しぶりに浮かべた、心からの笑みだった。
3. 世界を変える痛み
翌朝、オガワは激しい筋肉痛で目を覚ました。 ベッドから起き上がろうとすると、大胸筋が「昨日のことを忘れるな」とばかりに熱を持って主張してくる。 シャツのボタンを留めるのさえ億劫だ。 しかし、その痛みは不快ではなかった。それは、昨日の自分が確かに何かに立ち向かい、戦ったという「レシート(証明書)」だったからだ。
会社に着くと、不思議な変化が起きていた。 課長がまた溜息をついた。 昨日のオガワなら動揺していただろう。だが今日のオガワは違った。
(課長が溜息をついている。だが、今の俺には大胸筋の筋肉痛がある。この痛みの方がよっぽど現実的で、重大な問題だ)
筋肉痛という強烈な身体感覚が、繊細すぎる心のセンサーを鈍らせてくれていたのだ。 世界が少しだけ、シンプルに見えた。
それから一ヶ月、オガワは憑りつかれたようにジムに通った。 食事も変わった。昼食のコンビニ弁当の裏面を見て、「タンパク質」の項目を必死に探すようになった。鶏むね肉は恋人のように愛おしく、ブロッコリーは森からの贈り物のように輝いて見えた。
体つきも変わり始めた。薄かった胸板に、わずかだが厚みが生まれた。シャツの上からでも、背筋が伸びているのがわかる。 鏡を見るのが楽しくなった。そこには、以前のような「怯えた小動物」ではなく、自分の足でしっかりと大地を踏みしめる一人の男が立っていた。
4. 拒絶、あるいは別離の予感
金曜日の夜、オガワは同期のイケハタと居酒屋にいた。 イケハタはかつてのオガワの写し鏡のような男だ。痩せっぽちで、猫背で、常に何かに怯えている。
「なあ、オガワ。俺、昨日の会議で部長と目が合わなかったんだよ。これって、もう出世コースから外れたってことかな……」
イケハタがジョッキの縁を指でなぞりながら、暗い声で言った。その姿は、雨に濡れた段ボール箱のように頼りない。 以前のオガワなら、「わかるよ、辛いよな」と一緒に傷を舐め合っていただろう。 だが今のオガワには、明確な処方箋があった。
「イケハタ、筋トレをしよう」
オガワは身を乗り出して言った。瞳には、新興宗教の信者のような熱狂的な光が宿っていた。
「は?」イケハタがポカンと口を開ける。
「筋トレだよ。バーベルを持ち上げると、悩みなんて消えるんだ。筋肉を破壊して再生させる。そのサイクルこそが、俺たち自身を再生させるんだよ。テストステロンが出るんだ。世界が変わるぞ」
オガワは止まらなかった。スクワットがいかに人生の重荷に耐える足腰を作るか、デッドリフトがいかに背中を強くするかを説いた。 しかし、イケハタの表情は次第に冷めていった。まるで、理解できない言語を話す宇宙人を見るような目つきになった。
「……オガワ、お前さ」
イケハタが冷ややかに遮った。
「最近なんか変わったと思ったら、そういうことかよ。なんか、暑苦しいわ。それって現実逃避だろ? 筋肉つけたって、部長の評価が変わるわけじゃないし」
そして、決定的な言葉を吐き捨てた。
「お前、いつからそんな脳筋になっちまったんだよ」
その言葉は、冷たい針のようにオガワの胸に刺さった。 脳筋。脳みそまで筋肉になった単細胞。思考停止の馬鹿。 かつて同じ場所で震えていた同志からの、軽蔑の眼差し。
オガワは一瞬、言葉に詰まった。 だが、不思議と怒りは湧かなかった。むしろ、静かな覚悟が決まった。 彼はジョッキを飲み干し、イケハタの目を真っ直ぐに見据えて心の中で呟いた。
(ああ、そうだよ。脳筋で構わない。悩んで足がすくんで一歩も動けない賢い頭より、重いものを持ち上げて前に進める筋肉の方が、今の俺には必要なんだ)
「……そうかもな。俺は脳筋なのかもしれない」
オガワは自嘲気味に、しかし誇らしげに笑った。 二人の間に流れる空気が、決定的に分断された瞬間だった。
(第2部に続く)