
この話は学生時代に出会った友人から着想を得て作った話です。
カフェの死神
「また、いるよ……。」
「あ、本当だ。いつ見ても気味が悪いね。」
空が濃い黄昏色に染まる時間帯は、カフェにとって一番の書き入れ時だ。駅近くの「カフェ・キャメル」も例に漏れない。疲れ切ったサラリーマン、暇を持て余した主婦、賑やかな高校生たちが次々と扉を潜る。しかし、この喧騒の中に、いつしか「定点」のように居座る人物がいた。
その男は、30代前半にも、あるいは50代後半にも見えた。光の当たり方ひとつで老いと若さが入れ替わるような、正体不明の相貌。頭頂部は薄く、黒縁の丸眼鏡をかけ、くたびれた紺のジーンズに茶色のスニーカーという、どこにでもいる風体。だが、唯一、見る者を戦慄させる特徴があった。
重力に逆らえないかのように深く、異様なほど垂れ下がった『タレ目』だ。
常連の男子高校生・サダオは、学校帰りにこの店に寄るのが日課だった。かつて面白半分で読んだ人相占いの本には、「タレ目の人物は温厚で平和主義、愛されキャラ」と書かれていたのを覚えている。だが、窓際に座るあの男にそんな陽だまりのような印象はない。
いつか、誰かの命を音もなく奪うのではないか――。サダオは、生理的な恐怖に近い感情を抱いていた。
その直感は彼だけのものではなかったらしい。いつしかその男は、生徒たちの間で「カフェの死神」という不名誉な仇名で呼ばれるようになっていた。
死神の狂気
サダオは次第に、恐怖を上回る好奇心に突き動かされ、彼を観察するようになった。1ヶ月の観察を経て、いくつかの法則が見えてきた。
「死神」は、必ず窓際の一番奥の席に座る。彼がやってくるのは決まって午後2時。不思議なことに、その席は彼が来る直前に、まるで導かれるように空くのだ。
注文は、常にブレンドコーヒー1杯。砂糖もミルクも入れず、湯気の立つカップを両手で包み込むように持ち、午後6時までじっと動かない。視線は店内と、窓の外に映る街の景色を交互に、静かに這わせている。
――約4時間、ブレンドコーヒー1杯だけで?
サダオにとって、それは狂気としか思えなかった。
突然の来訪者
妄想は日に日に膨らむ。あの膨らんだポケットには消音器付きの拳銃が隠されているのではないか。あるいは、誰にも気づかれぬよう麻薬の取引を待っているのではないか。
その日は、肌にまとわりつくような、ひどく蒸し暑い夕暮れだった。
午後5時45分。いつもなら「死神」が席を立つ15分前。
店内に、突如として冷たい緊張が走った。
カランカラン、と乱暴にドアが開けられ、1人の男が飛び込んできた。男は顔を赤黒く上気させ、狂気を孕んだ目で店内をねめ回す。その手には、鈍く光る剥き出しの包丁が握られていた。
「金だ! 金を出せ! 早くしろ!」
悲鳴が上がる。サダオは恐怖で金縛りにあった。友人はテーブルの下に潜り込み、ガタガタと震えている。
そんな静寂と混乱が混ざり合う空間で、唯一、全く動じない男がいた。
死神、動く
「カフェの死神」だ。
彼は、すっかり冷めきったコーヒーを最後の一口まで飲み干すと、ゆっくりと立ち上がった。あの「タレ目」は相変わらず虚空を見つめているようで、温度が全く感じられない。
死神は、包丁を振り回す男の方へ、迷いのない足取りで歩き出した。
「おい、来るな! 刺すぞ!」
男が叫ぶ。サダオは心臓が止まる思いだった。やはり死神は、この惨劇を待っていた「始末屋」だったのか。彼が懐のポケットに手を伸ばした瞬間、サダオは銃声を覚悟し、ぎゅっと目を閉じた。
カチャリ、という乾いた音がした。
しかし、響いたのは怒号でも銃声でもなく、拍子抜けするほど穏やかな、オルゴールの旋律だった。
「……え?」
死神の行動
サダオが目を開けると、死神は男の目の前で、ポケットから取り出した小さな木箱を掲げていた。
死神の口が、初めて開く。
「……10分ほど前、君がこの店の前を何度も往復し、服の中に何かを隠し持っているのを窓越しに見ていたよ。その後ろを、必死な顔で追ってきた女性がいただろう?」
男の身体が、びくりと震えた。
「彼女は君を止めようとして……。最後には、あきらめて隣の交番へ飛び込んだ。3分前のことだ。もう、終わりだよ。この音を聴いて、落ち着きなさい。」
男は、その澄んだ音色に毒気を抜かれたのか、あるいは自分の葛藤をすべて見透かされていた事実に圧されたのか、その場に膝をついた。
直後、駆けつけた警察官によって男は取り押さえられた。
愛される存在
騒動が落ち着いた後、サダオは震える足を叱咤し、店を出ようとする彼に声をかけた。
「あの……。どうして、あの男が来るって分かったんですか?」
男は、あのタレ目を、少しだけ細めて笑った。
「毎日ここに座っていれば、街の影が見えるようになるんだよ。……それより、これ。君の友達、さっきの騒ぎでボタンが取れていただろう?これで、縫い付けておくといい。」
彼がポケットから取り出したのは、小さな裁縫道具と、落ちていた制服のボタンだった。
彼は「死神」などではなかった。4時間もの間、彼はただ窓の外に映る街の異変を見守り、困っている人がいればいつでも助けられるよう、ポケットの中に「備え」を詰め込んで待っていただけの、ただのお節介な男だったのだ。
その出来事から、彼の通称は「カフェの死神」から「ポッケ」へと変わり、街の人々に愛される存在となった。
やはり、タレ目の人物は「愛されキャラ」なのだ。サダオは、彼が座っていた空っぽの席を見つめながら、そう確信した。