
日常の延長線上にあるデジタルデバイスが、異界への窓口に変わる瞬間がある。
完璧主義で論理的な男、イケダ。彼が最も忌み嫌う「理屈の通らない怪異」は、かつての親友と無責任な後輩の接触から始まった。
「ビデオ通話中、久しぶりに会った友人の背後に何かいる。」
その些細な違和感は、やがて物理的な事故を伴い、逃げ場のない戦慄へと変貌していく。
画面越しに微笑む友人の背後で、蠢く「黒い影」の正体とは。
本記事では、三人の男たちが辿った、現代特有の「つながり」が招いた地獄の記録を綴って行く。
完璧主義者のイケダと、無責任な後輩オガワの日常
湿り気を帯びた執務室に響く、カタカタという不規則な打鍵音
夕刻を過ぎたオフィスには、不快な湿り気が停滞していた。古い空調が低く唸りを上げ、時折「パキッ」と乾いたプラスチックの軋み音を立てる。
その静寂を切り裂くように、無遠慮な打鍵音が響いていた。
「カタカタ、ッターン!」
リズムの崩れた、苛立ちを誘うタイピング。音の主は、イケダの斜め向かいに座る後輩のオガワだ。
イケダは眉間に深く皺を刻み、無言でモニターを見つめた。自身のキーボードを叩く指先には、常に一定の秩序と理屈がある。対して、オガワの音には一貫性がない。その不規則な音響は、まるで神経を逆撫でするヤスリのようにイケダの脳を削り取っていく。
理屈に合わない言動を嫌う、イケダの冷徹な正義感
イケダは、アラフォーという年齢に相応しい実績を積み上げてきた自負がある。
彼の信条はシンプルだ。「全ての事象には原因があり、論理的な帰結がある」。
オカルトや直感、ましてや「なんとなく」といった曖昧な言葉を彼は病的に嫌った。
「イケダさん、なんか今日、この部屋の隅っこ……嫌な感じしません?」
昼休みにオガワが口にした戯言を思い出し、イケダは鼻で笑う。
幽霊? 呪い? そんな非科学的なエネルギーが存在するなら、とっくに発電に利用されているはずだ。イケダにとって、恐怖とは「管理不可能な不確定要素」でしかなかった。
「また適当なことを……」無責任な後輩オガワへの拭えない苛立ち
「あー、またやっちゃった。まあ、なんとかなりますよね!」
オガワが軽い調子で声を上げた。確認するまでもない。また、顧客への提出書類に致命的な誤字を見つけたのだろう。
イケダは溜息を吐き、冷ややかな視線を送った。オガワは三十路を過ぎているというのに、言動の端々に甘えと無責任さが滲み出ている。
「オガワ、仕事は論理だ。感情や運で誤魔化すなと何度も言ったはずだが」
「すみません、すみません! でも、なんか最近ツイてないっていうか、集中できないんですよねぇ」
ヘラヘラと笑いながら後頭部をかくオガワ。その指先が、首筋の湿った皮膚を「ボリボリ」と掻き毟る音が、妙に大きくイケダの耳に届いた。
静かに忍び寄る、論理では説明のつかない負の連鎖の予兆
イケダは自身の完璧なスケジュール表を見つめ、心を落ち着かせようとした。
今日の業務は全て計画通り。トラブルの種は、この無能な後輩を除けばどこにも存在しないはずだった。
しかし、その時。
「……ジリッ」
耳元で、古いラジオのノイズのような音がした。
イケダが視線を上げると、オガワの背後の壁に、奇妙な染みがあるのに気づいた。
昨日まではなかったはずだ。それは、まるで誰かが濡れた手で壁を触ったかのような、歪な形をしていた。
「おい、オガワ。その壁の染み、いつからあった?」
「え? 染みなんてあります? ……あー、ほんとだ。結露じゃないっすか?」
無責任な回答。だが、イケダの目は誤魔化せない。
その染みは、ゆっくりと、しかし確実に、人の頭のような形へと形を変えているように見えた。
論理的に考えれば、ただの湿気による汚れだ。そう自分に言い聞かせた瞬間、オフィス全体の照明が一瞬だけ「チカッ」と瞬いた。
久しぶりに会った友人アンドウとの再会と、地獄の蓋
営業先で不意に鼻を突く、饐えた獣のような死臭
営業車の狭い空間には、芳香剤の安っぽいシトラスの香りと、オガワの体臭が混じり合っていた。イケダは窓を数センチ開け、不快な呼気を外へと逃がす。
「次のアポイントまで少し時間ありますね。飯、食っていきません?」
オガワの緊張感のない声に、イケダは時計を見やった。論理的な効率を考えれば、この付近で手早く済ませるのが妥当だ。
車を降りた瞬間、アスファルトの熱気と共に、その「臭い」はやってきた。
饐えた獣の死骸を、湿った土に埋めて数日放置したような、鼻の奥にねっとりと絡みつく腐敗臭。
「……なんだ、この臭いは」
この臭いはイケダだけが感じているようだった。オガワは何ともないようだ。
(なんで俺だけ……?)
イケダがそんなことを思いながらハンカチで鼻を覆ったその時、駅前の雑踏の向こうから、一人の男がふらりと現れた。
濁った眼で笑う変貌した旧友、アンドウとの数年ぶりの再会
「イケダ……か?」
掠れた声が鼓膜を震わせた。そこに立っていたのは、かつての親友、アンドウだった。
しかし、イケダの記憶にある快活な面影はどこにもない。肌は土気色を通り越して灰色に近く、頬は異常なほどに扱け、眼球だけが異様にぎょろりと突出している。
「アンドウ……お前、どうしたんだその様は」
イケダの問いに、アンドウは答えず、ただ口角を吊り上げた。
「ヒヒッ……久しぶりだな。偶然、かな……」
その視線はイケダを通り越し、背後の空虚な一点を見つめている。アンドウの周囲だけ、空気が澱み、重力が増しているかのような錯覚に陥る。イケダの論理回路が「異常」を告げるアラートを鳴らしていた。
ズズッ……不快な咀嚼音が混じる、三人の奇妙な会食
「へぇー!イケダさんの学生時代の友人なんすか!奇遇っすね、一緒に食べましょうよ!」
空気を読まないオガワが、無理やりアンドウを駅前の定食屋へと誘い込んだ。
薄暗い店内の隅、三人は向かい合った。運ばれてきた定食を、アンドウは無言で貪り始める。
「ズズッ、ズズズッ……」
麺を啜る音が、静かな店内に異様に大きく響く。それだけではない。咀嚼するたびに「グチャッ、ピチャッ」という、生肉を叩きつけるような不快な音がアンドウの口内から漏れ出す。
イケダは箸を止めた。目の前の男は、本当に自分の知っているアンドウなのか。
アンドウの影が、店内の蛍光灯に照らされて壁に伸びているが、その形が妙に長く、揺らめいているのが視界の端に入る。まるで影自体が独立した意志を持って、背後の壁を這い上がろうとしているかのように。
「連絡先、交換しましょうよ」地獄の蓋が開いた瞬間
「アンドウさん、面白いっすね!今度、また飲みましょうよ!」
アンドウの放つ不穏な空気などお構いなしに、オガワがスマホを取り出した。
イケダが止める間もなかった。オガワの無責任な好奇心が、デジタルな紐付けを完了させてしまう。
「……ああ。今度ビデオ通話でもしよう。俺はいつでも、繋がるから。」
アンドウが初めて、オガワの目を真っ直ぐに見た。その瞳の奥には、光を一切反射しない深い「穴」があった。
「ブルッ……」
オガワのスマホが、短く震えた。連絡先の交換が完了した合図だ。
その瞬間、店内の空調がガタガタと激しく震え、コップの水面が細かく波打った。
イケダは背筋に冷たい氷を押し当てられたような悪寒を覚えた。理屈では説明できない。ただ、取り返しのつかない「接続」が行われてしまったことだけは、直感的に理解していた。
ビデオ通話中の怪異と、オガワを襲った惨劇の真実
ギギィッ!と夜を切り裂くブレーキ音と、充満する錆びた鉄の匂い
深夜の静寂を、耳を刺すような高音の摩擦音が引き裂いた。
「ギギィッ! ガガッ、ドンッ!」
衝突の衝撃音は、乾いた夜の空気の中をどこまでも響き渡る。
数分後、警察からの連絡を受け、現場に到着したイケダが目にしたのは、無惨にひしゃげた営業車と、フロントガラスを突き破らんばかりに倒れ伏すオガワの姿だった。
辺りには、ガソリンの鼻を突く臭いと、生暖かい「錆びた鉄の匂い」が混じり合って停滞している。
「オガワ! しっかりしろ!」
イケダの声に、オガワは虚ろな目で応えた。その手には、画面が粉々に砕けながらも、奇妙な熱を帯びて発光し続けるスマートフォンが握りしめられていた。
全治3か月の重傷。オガワが震えながら語る「ビデオ通話」の怪
病院のベッドに横たわるオガワの姿は痛々しかった。全身を包帯で巻かれ、複雑骨折により全治3か月の診断。
だが、肉体の痛み以上に、オガワの精神は限界まで摩耗していた。
「……イケダさん、あのアンドウって男、やばいっすよ……」
カチカチと、噛み合わない奥歯を震わせながら、オガワは事故直前の状況を語り始めた。
深夜、アンドウから突然「ビデオ通話」がかかってきたのだという。
「出なきゃよかったんだ……でも、勝手に繋がったんです。画面の中にアンドウがいて、ずっとニヤニヤ笑ってて。そしたら、アイツの背後に……」
そこまで言って、オガワは激しくえずいた。
「背後に誰かいたんです」という戯言を切り捨てるイケダの論理
「アンドウの背後に、誰かいたんです。黒くて、細長い、影のような何かが。そいつが画面越しにこっちに手を伸ばしてきた瞬間、ハンドルが動かなくなったんです……!」
オガワの告白を、イケダは冷徹な眼差しで聞き流した。
「ビデオ通話のノイズか、あるいは深夜の運転による幻覚だ。論理的に考えて、画面越しに物理的な干渉が起こるはずがない。」
イケダにとって、これは不注意な後輩が起こした単なる自損事故に過ぎなかった。
恐怖に怯えるオガワを「無責任な妄想癖」だと心の内で断じ、イケダは病室を後にする。
しかし、廊下を歩くイケダの背筋に、ヌラリとした湿った風が吹き抜けた。密閉された病院の廊下で、風が吹くはずなどないというのに。
深夜、枕元で発光するスマホ画面。映し出された「アンドウ」の名
オガワの事故から3日が経過した。
イケダは自宅の書斎で、残務整理に追われていた。時計の針は深夜2時を回っている。
「アンドウとの再会が全ての元凶?まさかな。」
論理的な思考を巡らせる中、机の上に置いたスマートフォンが、突如として激しく振動した。
「ブーッ、ブーッ、ブーッ……」
暗闇の中で青白く発光する画面。そこに表示された発信者の名は、紛れもなく「アンドウ」だった。
しかも、通常の音声通話ではない。オガワが恐怖を滲ませていた、「ビデオ通話」の着信。
「まさかな。」
理屈が通らないことが嫌いなイケダは鼻で笑いつつも、心のどこかで何かが引っ掛かっている。 冷や汗がこめかみを伝うのを感じた。出なければいい。そう理性が叫ぶ一方で、彼の指は、まるで磁石に吸い寄せられるように、緑色の応答アイコンへと伸びていった。
ビデオ通話の画面越しに映る「背後の誰か」と、戦慄の結末
ヌチャッというノイズと共に繋がる、アンドウの不気味な微笑
「ヌチャッ……」
湿った生肉を素手で弄るような、生理的な嫌悪感を呼び起こすノイズがスピーカーから溢れ出した。
画面が青白く点滅し、ノイズの粒子が渦を巻く。その中心から、ゆっくりとアンドウの顔が浮かび上がってきた。
昼間に会った時よりも、さらに顔色は土気色を深めている。脂ぎった額が画面の光を反射し、その瞳は、まるでガラス玉を嵌め込んだかのように一切の生気を感じさせない。
アンドウは、ただ、微笑んでいた。左右の口角が耳元まで裂けるのではないかと思うほどに、不自然なほど吊り上がっている。イケダは反射的に端末を投げ捨てそうになるのを、震える指先で必死に堪えた。
恋愛の悩みを理屈で切り捨て、鼻で笑ったイケダの傲慢
「……イケダ、覚えているか。十年前、俺が泣きながらお前に電話した夜のことを」
アンドウの声は、地底から響くような低く湿った響きを帯びていた。 イケダの脳裏に、埃を被った記憶が蘇る。確かにそんなことがあった。当時、アンドウは手酷い失恋をし、精神の均衡を崩しかけていた。
『そんな論理的でない感情に振り回されてどうする。時間の無駄だ』
イケダはアンドウの切実な訴えを鼻で笑い、正論という名の凶器で斬り捨てたのだ。
「お前には、理屈に合わない人間の痛みなんて、ゴミと同じなんだろうな……。あの時、お前に笑われて、俺の中で何かが完全に腐り落ちたんだよ」
「お前と仲が良さそうだったから」という、血も凍る選定理由
アンドウの背後で、どす黒い紫色の影がゆらりと揺れた。
「……アンドウ、だからと言って、なぜオガワを狙った。あいつはお前とは初対面だったはずだ。関係ないだろう」
震える声で問うイケダに対し、アンドウは「ヒッ、ヒヒッ」と喉を鳴らして笑った。
「関係あるさ。あいつは、お前のすぐ隣で楽しそうに笑っていた。お前にとって一番身近な『生贄』だったんだよ。お前が大切にしている日常を、俺の理不尽な呪いで壊してやりたかった」
オガワが事故に遭ったのは、アンドウの恨みゆえではない。イケダを精神的に追い詰めるための、単なる「道具」として利用されたに過ぎないのだ。そのあまりの理不尽さに、イケダの全身から血の気が引いていく。
通話が切れた直後、イケダの背後の暗闇から聞こえた「本物の足音」
「注視しろよ、イケダ。お前の理屈では説明できないものが、すぐ後ろまで来ているぞ。」
アンドウが指さした先、画面の中の彼の背後で蠢いていた「人の形をした黒い影」が、ぬるりと画面の外へ這い出そうとしていた。
「次は、お前の番だ。」
その囁きと共に、スマートフォンの画面が「バキッ」という凄まじい音を立てて砕け散った。
強烈なオゾンの臭いと、饐えた獣の死臭が狭い書斎に充満する。
沈黙。
だが、その静寂を破ったのは、背後の暗闇から聞こえてきた音だった。
「ペチャリ……ペチャリ……」
それは、泥に塗れた裸足がフローリングを這う、紛れもない「本物の足音」だった。
イケダは振り返ることができなかった。ただ、砕けて真っ暗になったスマホの画面に、自分の肩へ細長い、関節の多すぎる指がゆっくりと伸びていく様が映り込んでいた。
その後、イケダの姿を見たものは誰もいない。