
もしあなたが疲れ切っているときに、「ここにあなたの望むものがある」と見知らぬ人から言われたらどうしますか…。
これは疲れた若者と、強欲な男に起きた摩訶不思議なお話です。
登場人物
- オオカワラ: 社会人1年目。要領が悪く、仕事を進めるのが遅い。毎日のようにナカノムラから叱責を受けている。
- ナカノムラ: 社会人7年目。下には強く当たるが、上にはごまをすっている。自分より出来が悪い社員を攻撃する悪癖を持っている。
- ノロ:プロジェクトマネージャー。温厚な性格。人を叱ることをしない。
- イケタニ: 大学時代の友人。フットワークは軽い。直感が鋭い。
残業帰りの絶望に漬け込む「悪魔の贈り物」。露天商が手渡した、この世ならざる『不思議な地図』
オフィスビルの白い蛍光灯は、夜が深まるほどに冷酷さを増す。定時という概念が死に絶えたフロアで、オオカワラは今日も研磨機にかけられる金属のように、心を削り取られていた。
深夜10時のオフィスビル。疲弊した精神が呼び寄せた「異界の入り口」
午後10時を回った頃、静まり返ったフロアに不快な破裂音が響く。教育担当の上司、ナカノムラがオオカワラのデスクに分厚い資料を叩きつけた音だ。
「やる気がないなら帰れ。もっとも、お前が投げ出した仕事を片付けるのは俺なんだがな。」
脂ぎった顔で勝ち誇ったように笑うナカノムラ。その罵声を背中で受けながら、オオカワラはただ低く頭を下げることしかできない。パソコンの画面を見つめすぎて充血した眼裏には、絶望という名の澱が溜まっていた。
ようやくビルを出たとき、街は静まり返り、夜風はすでに冬の気配を孕んでいた。駅へと向かう道すがら、街灯の届かない路地の隅に、普段は見かけない奇妙な一角があることに気づく。そこだけが、周囲の空気から切り離されたようにひどく冷え切っていた。
住所も地名も記載なし。怪しげな露天商が囁いた「救いの場所」という名の呪い
暗がりに座り込んでいたのは、古びた布を広げただけの露天商だった。
並べられているのは、錆びついた真鍮の鍵、中身の濁った小瓶、そして色褪せた巻物。店主の顔は深いフードに覆われ、ただ枯れ木のような指先だけが、街灯の僅かな光に白く浮き沈みしている。
素通りしようとしたオオカワラの足を、湿り気を帯びた低い声が止めた。
「……お疲れのようだな。若いの。」
店主は、一枚の古い紙を差し出した。それは紙というより、乾燥した皮膚のような、独特の光沢を持つ不気味な手触りの地図だった。
「そこに行ってみるといい。お前さんが今、一番望んでいる場所が記されている。」
「望んでいる場所?」
「苦しみも、罵声も、終わりのない仕事もない。真の安らぎが得られる場所だ。お前さんのような『資格ある者』にしか見えねえ地図だよ。」
代金も取らず、店主は闇に溶けるように姿を消した。手元に残された地図には、現代の印刷物では考えられないほど緻密な、しかし世界のどこにも存在しないはずの地形が描かれていた。
社会人1年目のオオカワラを襲う、パワハラと非日常への逃避行
翌日からも、ナカノムラの執拗な叱責は続いた。
「お前は本当に使えないな」
「給料泥棒」
向けられる言葉の刃は、日を追うごとに鋭さを増していく。
しかし、オオカワラの心境には変化が表れていた。上着のポケットに忍ばせた「地図」に触れるたび、指先に微かな熱が伝わってくるのだ。地図の中央に打たれた「赤い点」は、ナカノムラの怒鳴り声に呼応するように、ドクンドクンと脈動しているように見えた。
そんな日々を送る中、ようやくプロジェクトの終わりが見えてきた。プロジェクトマネージャーのノロからねぎらいの言葉がメンバーみんなに贈られる。
「みんなお疲れ。ここまでよく頑張ってくれた。本当にありがとう。プロジェクトが終わったら1週間くらいのリフレッシュ休暇を取得して、ゆっくりしてほしい。」
その言葉にメンバーは再びモチベーションを上げたようだ。ただ一人、オオカワラを除いて。
オオカワラは一人、能面のように表情を何一つ変えなかった。ただただオオカワラは胸に手を当てているだけだった。
(もう少しだ。ここへ行けば、すべてが終わる……)
それは救いか、それとも破滅か。
限界を迎えた精神は、正常な判断力を失っていた。オオカワラは、震える手で「リフレッシュ休暇」の申請書を書き上げた。地図が示す、カーナビにも載らない「空白の地」を目指して。
レンタカーのカーナビが沈黙した山道。闇夜に現れた「旗振りの老人」と、友人が感じた戦慄
プロジェクト完遂の祝杯をあげる暇もなく、オオカワラは逃げるように有給休暇を取得した。目的地は、例の「不思議な地図」が指し示す、県境の深い山中だ。
救いを求めているが、本能的な恐怖も感じていたオオカワラは、「秘境巡り」と噓をつき、大学時代からの友人であるイケタニを誘った。
「秘境巡りなんて、お前らしくないな」
助手席でそう笑うイケタニの能天気さが、その時のオオカワラには唯一の救いだった。
GPSが死ぬ瞬間。最新のカーナビが示した、地図上に存在しない「目的地」
借りたばかりの最新型レンタカーは快適だった。だが、山道に入り、周囲に街灯がなくなった頃から、カーナビが奇妙な挙動を見せ始める。
現在地を示す自車アイコンが、突然道路から外れ、何もない真っ白な空間を走り出したのだ。
「おい、このナビ壊れてないか? 迷ったみたいだぞ」
イケタニが不安げに画面を叩く。しかし、ナビは再起動を拒否するように、砂嵐のようなノイズを走らせた。
やがて、スピーカーから「目的地に近づきました」という機械音声が流れる。しかし、その声は先ほどまでの女性の声ではなく、泥を啜るような、湿り気を帯びた老人の声へと変質していた。 フロントガラスの先には、街灯もガードレールもない、地図にない獣道が闇の奥へと続いていた。
狂ったように旗を振る「表情のない老人」。深夜の峠で繰り返される不気味な警告
ヘッドライトの光が、霧の向こうに人影を捉えた。
深夜の峠、到底人がいるはずのない場所に、一人の謎の老人が立っていた。
老人はボロ布のような白い旗を手にし、狂ったような速度でそれを左右に振り続けている。旗振りの動きに合わせて、旗が風を切る音ではなく、湿った肉が叩きつけられるような音が夜の静寂に響く。
車を徐行させると、老人の顔がライトに照らし出された。そこには目も鼻も口もなかった。ただ、古びた石碑のように平坦な皮膚が、光を反射して白く光っている。
老人の体は動いていないはずなのに、声だけが直接脳内に響いてきた。
「この先、苦しみから逃れたいなら進むべし。」
それは、救済の誘いか、あるいは永遠の眠りへの招待状か。オオカワラの指が、引き寄せられるようにアクセルを踏み込もうとした。
友人イケタニの拒絶。「その先へは進むな」……生還の境界線となった直感と引き返し
「……オオカワラ、止まれ! 戻るぞ!」
イケタニの叫び声が、混濁していたオオカワラの意識を強引に引き戻した。
隣を見ると、イケタニの顔は土気色になり、全身をガタガタと震わせている。霊感など微塵もないはずの彼が、死の淵を覗き込んだ野生動物のような鋭い拒絶を見せていた。
「見ろよ、あの旗……あれ、人の髪の毛で編まれてるぞ……!」
イケタニの言葉に視線を走らせると、老人が振る旗からは、黒い長い髪が幾重にも垂れ下がり、地面を這いずり回っていた。
オオカワラは狂ったようにハンドルを切り、レンタカーを強引にUターンさせた。背後で、老人の旗振りの音が激しさを増していく。
「苦しみからは、逃れられぬ」という嘲笑のような声が、遠ざかるテールランプの光の中に溶けていった。
下山して人里の明かりが見えたとき、二人はようやく息を吹き返した。だが、オオカワラの胸の中には、得体の知れない喪失感が残っていた。あの道の先にこそ、自分が求めていた「本当の終わり」があったのではないか。
その未練が、後に最悪の惨劇を招く引き金になるとは、この時の彼はまだ想像すらしていなかった。
「俺が使ってやる」……強欲な上司が横取りした地図。リフレッシュ休暇の惨劇
休暇明けのオフィスは、まるで酸素が薄い底なし沼のようであった。
リフレッシュ休暇で得たわずかな安らぎは、出社して一時間も経たぬうちに、ナカノムラが投げつけた報告書の束によって霧散した。
「休み中に溜まった仕事だ。お前が遊んでいる間、俺がどれだけ苦労したと思っているんだ?」
ナカノムラの嫌悪感を隠そうともしない横顔を見ながら、オオカワラは胃の底が冷えるのを感じていた。
デスクから消えた遺物。ナカノムラが盗んだのは、部下の休息か「死の特等席」か
昼休み、静まり返ったフロアでオオカワラは一人、例の「不思議な地図」を広げていた。
ネットで地名を検索しても、緯度経度を打ち込んでも、やはりあの場所はヒットしない。地図上の「赤い点」は、以前よりも深紅に染まり、ドクンドクンと不気味に胎動している。
ふと手洗いに席を立ち、数分後に戻ったとき、異変は起きていた。
机の上に広げていたはずの地図が、消えていたのだ。
「……僕の机に、誰か来ましたか?」
隣の席の同僚に尋ねると、彼は声を潜めてナカノムラの席を指差した。
「さっき、ナカノムラさんがお前のデスクを漁ってたぞ。何か見つけて、ニヤニヤしながら自分の引き出しにしまってたが……。」
オオカワラの背筋に、嫌な汗が伝う。あれは、俺のものだ。
「誰のおかげで仕事があるんだ」……独善的な上司を突き動かした歪んだエゴ
意を決してナカノムラのデスクへ向かうと、彼は地図を隠そうともせず、熱心に眺めていた。
「……ナカノムラさん、その地図を返してください。それは私物です!」
ナカノムラは顔を上げると、せせら笑いながら地図をポケットにねじ込んだ。
「お前、こんな隠し持った穴場スポットに一人で行こうとしてたのか? 水臭いじゃないか。明日から俺もリフレッシュ休暇なんだ。ちょっと借りるぞ。いいだろう? お前の面倒を誰が見てやってると思ってるんだ。これくらい、当然の礼儀だろうが!」
「意味が分かりません。それは私のものなんですよ?」
悲鳴に近いオオカワラの制止も、ナカノムラには響かない。
「うるさい。仕事に戻れ。お前の『おすすめ』、俺が存分に堪能してきてやるよ!」
地図に触れるナカノムラの指先が、微かに黒ずんでいるように見えた。だが、彼にはそれが見えていない。ただ、欲望に濁った眼で、未知の「特権」を独占することに悦びを感じているようだった。
翌朝、彼は旅立った。レンタカーを借り、カーナビに「あの場所」をセットして……
翌朝、ナカノムラは宣言通り休暇に入った。
彼もまた駅前のレンタカー会社の営業所でレンタカーを借り、横取りした地図を指でなぞりながら、鼻歌まじりにアクセルを踏み込んだだろう。デジタルな文明が拒絶するその場所へ、紙に描かれた『歪み』だけを信じて。
「苦しみから逃れたいなら進むべし」
あの老人の言葉が、オオカワラの脳裏をよぎる。
ナカノムラは、部下をいたぶることで日々のストレスを解消していた。彼もまた、歪んだ形で「仕事の苦しみ」に囚われていた一人なのかもしれない。
オオカワラは、空席となったナカノムラのデスクを見つめていた。
主のいなくなった椅子からは、なぜか獣のような、あるいは腐敗した土のような臭いが漂っていた。
ナカノムラが今、どのあたりを走っているのかはわからない。
だが、確信があった。彼のカーナビは今頃、あの白い空間を指し示し、スピーカーからは「あの湿った声」が流れているはずだ。
「目的地に到着しました」
その音声が、現世で聞く最後の言葉になるとも知らずに。
ハンドル操作の誤りか、それとも……。ナカノムラが死亡した「転落事故」の真相と、道の先の正体
ナカノムラが休暇に入ってからというもの、オフィスには皮肉なほど平穏な時間が流れていた。
怒号も、机を叩く音も、人格を否定するような嫌味もない。オオカワラは、数ヶ月ぶりに「呼吸ができている」という実感とともに、のびのびと業務に打ち込んでいた。
だが、その平穏は、一通のメールによって無慈悲に打ち砕かれた。
人事からの一斉送信メール。オフィスを凍りつかせた「上司死亡」の無機質な通知
午後4時を回った頃、全社員のPCに通知音が鳴り響いた。
差出人は人事部。件名は「訃報」——。
『弊社社員 ナカノムラ・マサユキ氏が、休暇中の旅行先にて急逝されました』
数秒の間を置いて、フロアに動揺が広がる。昨日まであんなに元気に他人を罵倒していた人間が、死んだ?
オオカワラは指先が震えるのを止められなかった。人事の送った無機質な文字の羅列が、あの「皮膚のような地図」の感触と重なり、吐き気がこみ上げてくる。
即死に近い状態だった衝撃。ニュースが報じない、事故現場に残された『異様な足跡』
帰宅後、オオカワラは狂ったようにネットのニュースを漁った。
地方紙の片隅に、その記事は見つかった。
『県境の山道でレンタカーが崖下へ転落。運転していた40代男性が死亡。ブレーキ痕はなく、ハンドル操作を誤り直進したと見られる』
記事によれば、車は大破し、遺体は即死に近い状態だったが、なぜかその頭髪だけが、根こそぎ引き抜かれたように失われていたという……。現場は、あの「存在しないはずの道」の入り口付近だった。
しかし、SNSに投稿された現場近くの野次馬の書き込みには、警察が公表していない奇妙な符号が記されていた。
「ガードレールの外側に、裸足の人間が激しく踊り狂ったような足跡が残っていた」
「転落した車の屋根に、白いボロ布のようなものが、まるで旗のように突き刺さっていた」
それは、警察が言うような単なる事故ではない。ナカノムラは、あの謎の老人に招かれ、自らアクセルを踏み込んだのだ。
「苦しみから逃れる方法」の答え。ナカノムラが今、あの場所で振っているもの
「この先、苦しみから逃れたいなら進むべし。」
老人の言葉が、再びオオカワラの脳内でリフレインする。
あの山道の先にあったのは、真の救済などではなかった。そこにあったのは、終わりなき労働よりも、パワハラよりも残酷な「役割」の継承だったのではないか。
だがそれはあくまで推測に過ぎない。これ以上考えても仕方がない。
そう思い、オオカワラはPCの電源を落とした。
その時だった。
暗転したモニタに、「あの場所」でナカノムラが真っ赤に染まった旗を振っている光景が映った気がした。