Zeronicle Story

創作した話や絵を中心に綴るブログ

第三ボタンの呪い

これは、知人であるタカシから聞いた話である。


学ランの第三ボタンには、卒業式に意中の相手へ渡すと想いが叶うという、甘酸っぱい伝説がある。だが、俺たちの通う古びた校舎には、それとは正反対の、陰湿な噂が黴のように染みついていた。

「第三ボタンが、予期せず取れてしまうと、何か不吉なことが起きる」

心臓に一番近いボタンだから、魂が抜けやすくなるのだと、誰かが囁いていた。その声は、湿った雑巾のような響きで耳に残り、俺の心をじっとりと濡らした。俺は極度の小心者で、この手の話には滅法弱い。心臓に直接縫い付けられた糸が、ある日ぷつりと切れてしまうような、そんな想像をしては勝手に身震いしていた。

一学期の中間テストが終わった日の放課後。埃と解放感が入り混じった空気が、西日の差し込む廊下に満ちていた。友人たちと次の休みの計画で盛り上がっていた、まさにその時だった。

「なあ、タカシ。お前、さっきの数学、最後の問題どうだった?」
「ああ、あれはもう…宇宙語にしか見えなかったよ」

俺が肩をすくめておどけてみせた、その瞬間。胸元で何かが弾ける、乾いた感触があった。視線を落とすと、黒く鈍い光を放つ円盤が、スローモーションのように床へと落ちていくのが見えた。

カツン、と。

硬質な床に響いたその音は、まるで墓石に小石を投げつけたかのように、俺の鼓膜を不吉に震わせた。友人たちの笑い声が、急に遠くなる。そこにあったのは、俺の学ランから取れ落ちた、紛れもない第三ボタンだった。

「お、タカシ。ついに魂が抜ける時が来たか?」
「縁起でもねえこと言うなよ!」

友人の軽口に、俺は引きつった笑みを返すのが精一杯だった。拾い上げたボタンは、ひどく冷たく、まるで死人の体温のようだった。手のひらに乗せたそれは、ただのプラスチックの塊ではない。これから俺の身に降りかかる災厄を凝縮した、黒い呪いの結晶のように思えた。

その日から、俺の世界は歪み始めた。

彼の心は、まるで一滴のインクが落とされた水のように、黒い不安にじわじわと侵食されていった。些細な物音が、すべて不吉な前兆に聞こえる。カラスの鳴き声は俺を嘲笑う断末魔に、風が窓を揺らす音は、何か得体の知れないものが家に入ろうとしている合図に感じられた。

帰り道、アスファルトに伸びる自分の影が、まるで意思を持っているかのように、俺の足にまとわりついてくる。電柱の陰から、誰かが俺を見ているような気がして、何度も振り返った。そこにいるのは、夕暮れの闇だけだ。しかし、その闇の奥で、何かが蠢いているような錯覚から逃れられない。世界が、まるで俺を嘲笑うかのように、歪んだ鏡となって不安を映し出していた。

「タカシ、あんた、制服のボタン取れてるじゃない。早く付けないとみっともないでしょ」

夕食の席で、母親にそう指摘された。早く付けてもらわなければ。そう思うのに、喉がカラカラに乾いて声が出ない。

「あ…うん。あとで自分でやるよ」

嘘だった。裁縫箱に手を伸ばすことすら恐ろしかった。もし、このボタンを縫い付けたら、呪いを俺の身体に縫い付けてしまうことになるのではないか。そんな馬鹿げた妄想が、鉛のように心を重くする。俺の心は、ひび割れたガラス細工のようで、些細な振動にも砕け散ってしまいそうだった。

その夜、俺は自室のベッドで、取れたボタンをただ握りしめていた。眠れるはずもなかった。闇に慣れた目が、机の上のスタンドライトに照らされた部屋の隅々を捉える。壁の染みが、苦悶に満ちた人の顔に見えた。カーテンの隙間から覗く月明かりが、まるで冷たい眼光のように俺を射抜いていた。

恐怖が頂点に達した、その時だった。
握りしめていたボタンが、不意に脈打ったような気がした。

「え…?」

思わず声が漏れる。手のひらを開くと、黒いプラスチックのボタンが、心臓のように、あるいは蠢く虫のように、微かに動いている。錯覚ではない。視覚を強く刺激するその光景に、俺は息を呑んだ。ボタンの中心にある四つの穴が、まるで小さな四つの目のように、じっと俺を見つめ返している。吸い込まれそうだ。俺の魂が、この小さな黒い円盤に吸い取られていく。

「やめろ…!」

俺は絶叫し、ボタンを壁に向かって投げつけた。プラスチックが壁に当たる、乾いた音が響き渡る。それきり、部屋は再び静寂に包まれた。俺は荒い息を繰り返しながら、布団を頭までかぶって、ただ朝が来るのを待った。

翌朝、俺は何事もなかったかのように目を覚ました。降り注ぐ朝日は昨日と変わらず、部屋はいつもの俺の部屋だった。昨夜の出来事は、すべて悪夢だったのだろうか。

身体を起こし、胸元に目をやる。ぽっかりと穴が空いたままの制服。やはり、ボタンは取れたままだ。俺は恐る恐る、昨夜ボタンを投げつけた壁際へと歩み寄った。

しかし、そこにボタンはなかった。部屋中を探したが、どこにも見当たらない。まるで、最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消えていた。

不吉なことは、何も起こらなかった。事故にも遭わず、病気にもならず、テストの成績もいつも通りだった。友人関係も変わらない。

ただ一つ、奇妙なことがあった。

あの日以来、俺は鏡に映る自分の姿に、時折、言いようのない違和感を覚えるようになったのだ。それは、まるで借り物の身体を眺めているような、奇妙な乖離感だった。そして、ごく稀に、胸のあたりが、まるでそこにぽっかりと穴が空いているかのように、ひどく、ひどく寒く感じられることがあった。

失われた第三ボタンは、俺の身代わりとなって、何か不吉なものをどこかへ持ち去ってくれたのだろうか。

それとも、あの黒いボタンは、俺の魂のひとかけらを喰らい、今もこの世界のどこかで、次の獲物を探して、静かに脈打っているのだろうか。

答えは、誰にも分からない。ただ、俺の制服の胸元には、今もぽっかりと、修復されることのない穴が空いている。