Zeronicle Story

創作した話や絵を中心に綴るブログ

脳筋と言われたってかまわない!俺は筋トレをする!~第2部~

爆弾脚

第2部:俺は脳筋?イケハタの悲しい過去

1. 筋肉の賢者たち

脳筋」という言葉は、オガワの中で奇妙な反響を続けていた。 しかし、ジムに通えば通うほど、それが大きな誤解であることに気づかされた。

ある晩、スクワットのフォームに悩んでいたオガワに声をかけてきた男がいた。名は権田(ごんだ)。樹齢千年の大木のような太い首と、岩石を削り出したような顔立ちをした60代の男だ。 彼は見た目の威圧感とは裏腹に、まるで茶道の師範のように静かな声で言った。

「重心が踵に乗りすぎている。それでは膝という蝶番(ちょうつがい)が壊れてしまうよ。足の裏全体で地球を掴むんだ」

権田の指導は論理的かつ解剖学的だった。骨格の構造、筋肉の収縮率、栄養学。彼らが語る言葉は、オガワが仕事で扱っている曖昧なビジネス用語よりも遥かに緻密で、科学的だった。

「いいかい、青年」 インターバル中、プロテインを啜りながら権田は言った。

「バーベルは正直だ。裏切らない。だが、それは『何も考えなくていい』という意味ではない。自分の体という宇宙と対話できない者は、怪我をして終わる。筋肉を育てるのは、極めて知的な作業なんだよ」

オガワはハッとした。 イケハタの言った「脳筋」というレッテルは、未知のものに対するただの恐怖心が生んだ幻影だったのだ。 ここの住人たちは、自分の肉体という神殿を磨き上げる求道者たちだった。オガワは、自分がこの場所の一部になりつつあることに、静かな誇りを感じていた。

2. 澱む沼

一方、オガワが輝きを増すのと反比例するように、イケハタの影は濃くなっていた。 オフィスの蛍光灯の下、イケハタの背中は枯れかけた観葉植物のように丸まっていた。

「……またオガワのやつ、定時で上がりやがった」

イケハタは誰もいない給湯室で、苦いコーヒーを流し込みながら毒づいた。 かつては傷を舐め合う仲間だった。オガワが上司に怒られれば、「あいつは見る目がない」と慰め、自分がミスをすれば、「運が悪かっただけだ」とオガワが言ってくれた。 その共依存の温かい泥沼が、イケハタにとっての安住の地だった。

だが、オガワはその沼から這い上がってしまった。 泥だらけの手を洗い、逞しい足取りで光の方へ歩いていってしまった。残されたイケハタだけが、冷え切った泥の中で震えている。

脳筋が……。筋肉なんかで、人生の何が解決するんだよ」

イケハタの脳裏に、封印していた古い記憶が蘇る。それは、錆びついた鎖のように彼の心臓を締め付けた。

3. 敗北のグラウンド

イケハタの「悲しい過去」。それは高校時代の苦い記憶だった。 進学校に通っていたイケハタは、勉強はできたが運動はからっきしだった。しかし、父親の「男なら一度は運動部に入れ」という強権発動により、ラグビー部に入部させられたのだ。

そこは地獄だった。 「気合だ」「根性だ」と叫びながらぶつかり合う肉の壁。繊細なイケハタにとって、それは野蛮な儀式にしか見えなかった。 それでも、彼は彼なりに努力をした。隠れて走り込みもしたし、腕立てもした。

しかし、最後の夏の大会。 イケハタは決定的なタックルをミスした。相手の巨漢選手に弾き飛ばされ、無様に宙を舞った。そのせいでチームは負けた。

『これだから頭でっかちは使えねえんだよ』

ロッカールームで聞こえてきたチームメイトの陰口。 そして、応援に来ていた父親の、失望に満ちた冷たい視線。

その瞬間、イケハタの中で何かが決壊した。 努力は裏切る。肉体は精神を凌駕する理不尽な暴力装置だ。汗臭い努力など、知性のない野蛮人がすることだ。 そう思い込むことで、彼は自分のプライドを守ったのだ。「俺は肉体勝負の土俵には乗らない。頭脳で勝負する人間だ」と。

オガワの変貌は、その防衛本能を強烈に刺激していた。 オガワが筋肉をつけることは、イケハタが捨てた「肉体への努力」を肯定することになる。それは、イケハタの過去の敗北を掘り返す行為に他ならなかった。

4. 交わらない視線

数日後、昼休みの社員食堂。 オガワは持参したタッパーを開けていた。茹でたブロッコリー、鶏むね肉、玄米。色気のない、しかし機能美に溢れた食事だ。

向かいに座ったイケハタは、カツ丼をかきこみながら、耐えきれずに口を開いた。

「よく飽きないな、そんな餌みたいな飯」

棘のある言葉だった。だが、オガワは穏やかに微笑んだ。

「餌じゃないよ、燃料だ。これがあのウェイトを挙げる力になると思うと、最高のご馳走に見えるんだ」

「……お前、変わっちまったな。昔はもっと、物事の機微がわかる奴だったのに」

イケハタの声が震えていた。怒りではない。それは、置き去りにされる子供のような不安の響きだった。

オガワは箸を止めた。 眼の前の友人が、何かに怯えているのがわかった。以前の自分なら、ここで「ごめん、やりすぎたかな」と迎合していただろう。 だが、権田の言葉が脳裏をよぎる。『自分の体という宇宙と対話できない者は、怪我をして終わる』。 他人との関係も同じだ。ここで嘘をついて合わせることは、関係性の怪我に繋がる。

「イケハタ。俺は変わったんじゃない。元の形に戻ろうとしてるだけだ。余計な贅肉や、他人の顔色という脂肪を削ぎ落として、本来の自分を探してるんだ」

「それが脳筋の理屈だって言うんだよ!」

イケハタが声を荒らげ、箸を叩きつけた。食堂の視線が集まる。 イケハタの顔は歪んでいた。

「努力すれば報われる? 筋肉は裏切らない? そんな綺麗事、強者の論理だろ! 生まれつき向いてない奴だっているんだ。頑張っても無様に吹き飛ばされる奴だっているんだよ!」

それは、高校時代のイケハタ自身の叫びだった。 オガワは静かにイケハタを見つめた。その瞳には、かつてのような動揺の色はなかった。深海のように静かで、しかし鋼鉄のように強い光が宿っていた。

「イケハタ。俺は強者じゃない。お前も知ってるだろ? 俺がどれだけ弱い人間か」

オガワは自分の胸を拳で軽く叩いた。

「だからこそ、やるんだ。裏切られた過去があるなら、今度は裏切らないものを自分で作るしかない。俺にとってそれが筋トレだった。お前にとってのそれが何なのかはわからない。でも……」

オガワは言葉を切った。これ以上言葉を重ねても、今のイケハタには届かないことを悟ったからだ。 言葉は無力だ。今の自分にできるのは、説得することではない。

「……午後も仕事がある。行くよ」

オガワは席を立った。 残されたイケハタは、冷めたカツ丼を見つめたまま動けなかった。その背中は、以前よりもさらに小さく見えた。

二人の断絶は決定的になったように見えた。 しかし、運命の歯車は、意外な形で二人を再び結びつけようとしていたのだった。

(第3部に続く)