
第1章:終わりの始まり
病院の無機質な白い壁に四方を囲まれた個室には、人工呼吸器が刻む単調な駆動音と、心電図モニターの規則的な電子音だけが響き渡っていた。
部屋の中心に据えられたベッドには、1人の男が横たわっている。
眼窩は深く落ちくぼみ、頬骨は刃物のように鋭く突き出ている。シーツの下の四肢は、枯れ枝のように細い。枕元には抜け落ちた頭髪が散乱し、わずかに残った髪も雪のような白髪へと変貌していた。
まるで死体だった。
どこからどう見ても、還暦をとうに過ぎた老人の姿である。
しかし、ベッドの足元に掛けられたカルテに記されている男の実年齢は、「32歳」であった。
男の顔の半分は酸素マスクに覆われ、両腕には何本もの点滴の管が皮膚に食い込むように繋がれている。すでに自発呼吸すらままならない状態であり、機械が強制的に肺へ空気を送り込むたびに、あばら骨の浮き出た薄い胸板が不自然に上下を繰り返していた。
この病室を訪れる見舞い客は、誰一人としていない。
時折、無表情な看護師が現れては、事務的に点滴のパックを交換し、瞳孔の反応をペンライトで確認して去っていくだけである。その間も、男は一切の反応を示すことはなかった。
ベッドの上の肉体は、長きにわたる極度の精神的苦痛と絶望によって内側から激しく削り取られ、とうの昔に生きる気力を喪失していた。ただ医療器具によって強引に死の淵から引き留められ、天井の染みを虚ろな瞳で見つめ続けるだけの、生きた屍と化していたのである。
男の命の灯火は、今まさに完全に消え去ろうとしていた。
窓の外の景色が昼から夕暮れへと移り変わり、病室内に冷たい影が落ち始めた頃。
規則的だった心電図の電子音の周期に、わずかな乱れが生じた。
男の喉仏が微かに震え、酸素マスクの内側が白く曇る。ずっと焦点の定まっていなかった濁った眼球が、ゆっくりと動いた。 枯れ果てたはずの体から最後の力を振り絞るように、酸素マスクの奥でひび割れた唇が蠢く。
「―――許せない」
病室の空気を底冷えさせるような、深い怨念と執着が入り混じった掠れ声であった。
そのただ一言が虚空に溶け込むと同時に、男の体からふっと力が抜け、半開きだった瞼が静かに閉じられた。強制的に上下させられていた胸の動きが、完全に停止する。
その瞬間、ベッド脇の脳波計(EEG)が、人類の臨床記録には存在しない未知の波形――まるで空間そのものがバグを起こしたかのような、激しい量子干渉のエラーを吐き出した。
駆けつけた医師が、信じられないものを見るようにモニターを見つめ、思わず呟く。
「なんだこれは……。まるで、虚無から意識が跳躍してきたみたいだ……。」
数秒の沈黙の後、モニターが「ピー」という無慈悲な警告音を鼓膜を刺すように鳴らし始めた。
32歳の男の命が、永遠に絶たれた瞬間であった。
第2章:日常の崩壊と決別
その年の春、18歳のタイチは大学へ入学した。
情報工学を専攻するタイチの周囲には、すぐに波長の合う数人の同級生が集まるようになった。目力が強くどこか底知れないタレ目が特徴的なアントシ、常にひょうひょうとした態度で場を和ませるノリユキ、タイチと肩を並べるほどのプログラミング技術を持つトモヒロ、そして学業において常にトップクラスの成績を収めているコウヘイの四人である。
タイチは入学早々から、自作のゲームプログラムの販売に没頭し始めていた。C#を駆使し、UMLで複雑なクラス図などを書き殴っては深夜までモニターに向かう日々。その努力は実を結び、学生としては十分すぎるほどの収入を彼にもたらした。
しかし、その資金的な余裕と「自分には才能がある」という驕りは、彼の生活を徐々に、だが確実に蝕んでいった。元来の遅刻癖に「授業に出なくとも稼げる」という歪んだ合理性が加わり、タイチは大学へ足を運ぶ回数を極端に減らしていく。
友人たちと夜遅くまで飲み歩くか、マンションの自室で空き缶の山に囲まれながらキーボードを叩き続けるだけの毎日。当然の結果として出席日数は不足し、修得単位は危機的な状況へと陥っていった。
そんな自堕落な生活に、唯一ブレーキをかけようとしていたのが、タイチの恋人で2つ年下の高校生、ユウである。
ある日の午後。制服姿のユウがタイチの部屋を訪れた。部屋中には脱ぎ捨てられた衣類や、飲みかけのエナジードリンクが散乱している。彼女はため息をつきながら、それらをゴミ袋にまとめ始めた。
「ねえ、タイチ。このままじゃ、本当に留年しちゃうよ。ゲームを作るのも凄いと思うけど、ちゃんと学校には行って」
タイチはデュアルモニターから一切視線を動かさず、コンパイルのエラーを吐き出す画面を見つめながら苛立たしげに言い放った。
「うるさいな。俺の勝手だろ。俺はあんな退屈な講義を受けなくても、自分で稼げるんだよ。お前には関係ない」
「関係ないって……彼女として心配してるから言ってるのに。最近、顔色も悪いよ?」
「それが鬱陶しいって言ってるんだよ。お前は俺の言うことだけ聞いて、大人しくしてればいいんだ。ほら、ちょっとこっち来い」
タイチはコードから目を離し、苛立ちをぶつけるように強引にユウの腕を掴み、キスを迫った。しかし、ユウは怯えた表情を見せ、力強くタイチの胸を押し返し、思い切り掌でタイチの頬を叩いた。
「……っ、痛い! やめてよ!」
突き飛ばされたタイチは叩かれた頬を撫でながら舌打ちをし、冷たい視線で彼女を見下ろした。ユウの目には涙が浮かんでいた。
「もう……最低。タイチは自分のことしか見えてない。もう、会わないから!」
ユウは顔を伏せ、カバンを掴むと、振り返ることなく部屋を飛び出していった。バタン、と乱暴に閉められたドアの音が、静まり返った部屋に虚しく響く。
タイチは数秒だけそのドアを見つめた。胸の奥を、微かな罪悪感がちくりと刺す。だが、彼はすぐに首を振ってその感情を振り払った。俺はあいつらとは違う。稼ぐ才能があるんだ。あんなガキに説教される筋合いはない――。
そう無理やり自分を正当化すると、「勝手にしろ」と吐き捨てて、再びモニターへと向き直った。
この日を境に、2人が顔を合わせることは完全に無くなった。
第3章:モラトリアムの終焉
ユウとの別れは、タイチにとって何の痛手にもならなかった。いや、むしろ口煩い小言から解放され、彼はますます自分の欲望と享楽の赴くままに大学生活を謳歌し始めた。
タイチの部屋は、いつしかアントシたち悪友の溜まり場となっていた。夜通し酒を飲み、ネット対戦ゲームに興じ、昼過ぎに起きてはまた自作ゲームのプログラムを組む。口座の残高は増え続け、タイチは自分が世界の中心にいるかのような万能感に浸っていた。
ユウの忠告通り、単位は絶望的な状況だったが、タイチは「いつでも取り返せる」と高を括っていた。アントシやノリユキたちと馬鹿騒ぎをしている時間だけが、彼にとっての「リアル」だった。
しかし、モラトリアムの時間は永遠ではない。
季節は無情に巡り、あっという間に数年の月日が経過した。
キャンパスの木々が枯れ葉を落とし、冬の冷たい風が吹き抜ける頃。コウヘイ、ノリユキ、トモヒロ、アントシの4人は順当に単位を修得し、卒業論文の提出も終えようとしていた。一方で、タイチの留年は正式に決定していた。
大学構内のベンチに、久しぶりに5人が集まっていた。卒業研究の発表を終え、どこか大人びた顔つきで真新しいスーツやコートを着こなす友人たち。その中で、タイチだけが数年前から変わらないヨレヨレのパーカー姿で、所在なさげにスマートフォンを操作していた。
スマートフォンから顔を上げたタイチは、友人たちの顔を順番に見回した。胸の奥で、どす黒い焦燥感と嫉妬が渦を巻く。自分だけが置いていかれる。いや、違う。俺の方が稼いでいるし、優秀なはずだ。こいつらは所詮、平凡なサラリーマンになるだけの凡人じゃないか。
込み上げてくる惨めさを、薄っぺらい優越感で必死に塗り潰す。そして、取り残される焦りなど微塵も感じていないとばかりに、彼は軽く肩をすくめてみせた。
不意に、アントシが口を開いた。
「なぁ、せっかくだし。卒業前にみんなでパーッと遊ぼうぜ?」
その提案に対し、ノリユキ、トモヒロ、コウヘイが次々と賛同の声を上げる。
「いいな、それ。社会人になったら、こうやって集まることも難しくなるしな」
「タイチも行くよな? 俺たち、これでしばらくお別れかもしれないし」
「いいぜ。俺は卒業できないけど、お前らの門出くらい祝ってやるよ」
短く頷くタイチを見て、アントシがニヤリと笑った。
最後の思い出作りとして、数日後にアントシの運転する車で、海沿いへのドライブ旅行へ出かけることがその場で決まった。それが、彼らにとって文字通り「最後」の旅行になるとは、この時のタイチは知る由もなかった。
第4章:死出のドライブ
数日後。5人の青年を乗せたミニバンは、春先の冷たい風が吹き抜ける海岸沿いのドライブウェイを走っていた。
ハンドルを握るのはアントシである。助手席にはノリユキ、後部座席にはタイチ、トモヒロ、コウヘイが陣取り、車内にはカーステレオから大音量の音楽が流れていた。
「おいコウヘイ、一眼レフ持ってきたのかよ。気合い入ってんな」
「そりゃあ、最後の旅行だからな。お前らの間抜けなツラ、高画質で残しといてやるよ」
コウヘイが少し古い型番のキヤノンのカメラを弄りながら笑うと、車内はドッと沸いた。タイチも窓の外に広がる海を眺めながら、久々に心の底から楽しさを感じていた。
一行が最初の目的地である、海沿いの切り立った崖の上に建つ展望台に到着したのは、昼を少し回った頃だった。
コンクリート造りの3階建ての展望施設には、季節外れのためか、あるいは平日だからか、他の観光客の姿は全くない。5人は車を降り、それぞれに背伸びをして潮風を浴びた。
「ちょっと上から景色撮ってくるわ」
コウヘイがカメラを首から下げ、1人軽快な足取りで展望台の螺旋階段を登っていった。残りの4人もトイレに行ったり、売店の自販機へ向かったりと、自然に散り散りになっていった。
タイチが自販機で缶コーヒーを買い、プルタブを開けようとした、その時だった。
突如として、重い物がアスファルトに激突する、生々しく鈍い音が響き渡った。
スイカをコンクリートに力一杯叩きつけたような、ひどく湿った衝撃音。
何事だ?
タイチはコーヒーを取り落とし、音のした方へ駆けつけた。アントシ、ノリユキ、トモヒロもほぼ同時に駆け寄ってくる。 音がしたのは、展望台の真下だった。
「……え?」
そこにあったのは、コウヘイだった。
いや、「倒れている」という表現は生ぬるい。頭部は原型を留めないほどに砕け散っている。首には一眼レフカメラのストラップが深く食い込んでいた。四肢は関節を無視して、あり得ない方向に折れ曲がっている。ピクリとも動かない。周囲のアスファルトは、瞬く間に赤黒い血だまりへと変わっていく。
「おい……嘘だろ。おい、コウヘイ!」
誰かの震える声が漏れた。
パニックに陥った4人は遺体の元へ駆け寄るが、脳漿を撒き散らして絶命していることは誰の目にも明らかであった。足を滑らせたのか、それとも自ら飛び降りたのか。
「警察! 救急車と警察に連絡しないと! ちょっと俺、電波入るとこまで行って電話してくる!」
ノリユキが血相を変え、スマートフォンを握りしめたまま、展望台の裏手へと続く駐車場の方へ走り去った。
残されたタイチ、アントシ、トモヒロの3人は、ただ血の海に沈む友人の変わり果てた姿の前で、呆然と立ち尽くすことしかできなかった。
10分が経過した。警察を呼びに行ったはずのノリユキが戻ってこない。
「遅いな。ノリユキのやつ、どこまで行ったんだ?」
アントシの言葉に、トモヒロが周囲を見回す。展望台の裏手へ続く道には、人影一つない。ノリユキは、まるで煙のように忽然と姿を消してしまった。
ただならぬ異常事態に3人が周囲を警戒し始めたとき、トモヒロの視線が、駐車場のはずれにある木立で止まった。
そこに、1人の男が立っていた。
のっぺりとした無表情でこちらを見つめているのは、同級生であり、トモヒロと同じ研究室に所属している「ロキ」であった。何を考えているのかわからず、周囲に不気味な印象を与えることで知られる彼が、なぜこんな遠方の観光地に立っているのか。
「ロキ……?」
トモヒロがその名を口にし、木立の方へ一歩を踏み出した。
しかし、トモヒロが薄暗い木陰に足を踏み入れた瞬間、そこにあったはずのロキの姿がふっとかき消えた。
「あれ……? どこに……」
見間違いかと思い、トモヒロが不審に思って振り返ろうとした、まさにその時だった。
完全に死角となっていた太い木の裏側から、風を切るような鋭い音が鳴った。
直後、トモヒロの頭部が不自然に揺れ、その体は糸の切れた操り人形のように、悲鳴を上げる間もなく地面へと崩れ落ちた。ピクピクと痙攣するトモヒロを見下ろしていたのは、いつの間にか背後に回り込み、血濡れた鉄パイプを握りしめていたロキであった。
第5章:狂気の告白
突如として地面に崩れ落ちたトモヒロの姿に、タイチは弾かれたように後ずさった。トモヒロの頭部からは赤黒い血が流れ出し、枯れ葉を濡らしていく。
「ロキ、お前……何をして……!」
タイチが悲鳴のように叫ぶと同時に、ロキは手にしていた血濡れの鉄パイプを無造作に放り投げた。そして、タイチを一瞥することもなく、ふらふらと薄暗い木立の奥へ足を踏み入れていった。
「待て! ロキ!」
タイチは追いかけようとしたが、足元でビクンッと大きく痙攣したトモヒロから目を離すことができなかった。
パニックに陥り、血だまりの中で震える友人にすがりつくタイチ。
「おい、トモヒロ! しっかりしろ! 誰か、救急車!!」
その数十秒後だった。木立の奥から、枯れ葉を踏み荒らすけたたましい足音が近づいてきた。
「タイチ! トモヒロ! どうしたんだ!?」
血相を変えて茂みから飛び出してきたのは、アントシであった。
「ア、アントシ! ロキが……ロキが急にトモヒロを……!」
「なんだって!? くそ、とにかく止血だ!」
駆け寄ってきたアントシは、動揺した素振りでトモヒロの傷口をハンカチで強く押さえた。しかし、流れ出る血は一向に止まらない。
救急車を呼ぶため、そして姿を消したノリユキを探すため、タイチとアントシはパニック状態のまま展望台の周囲を走り回った。海風に声が掻き消される中、駐車場から海岸沿いの遊歩道、さらには裏手の雑木林まで手分けをして探し回ったが、誰の姿も見つけることはできない。
息を切らし、足を引きずるようにして元の駐車場が見える位置まで戻ってきた2人の視界に、突如として赤と青の強烈な閃光が飛び込んできた。
いつの間にか、数台のパトカーが展望台の周囲を取り囲み、サイレンの音がけたたましく鳴り響いている。崖下を通りかかった漁船が転落したコウヘイを発見し、通報したらしい。制服警官たちが慌ただしく動き回る中、少し離れた雑木林の入り口付近では、すでにブルーシートが広げられようとしていた。
その隙間から、血の気を失った土気色の顔が覗く。遠目からでも、それが誰であるかは明白だった。行方不明になっていたノリユキ、先ほど昏倒したトモヒロ、そして木立の奥へ消えたはずのロキである。
「おい……嘘だろ……」
タイチがふらつく足取りで現場へ近づこうとした瞬間、強い力で腕を引かれた。アントシだった。
パトカーの回転灯が届かない暗がりにタイチを引きずり込むと、アントシは血相を変えて小声で怒鳴った。
「馬鹿野郎、行く気か!? 見ろよ、全員死んでるんだぞ!」
「で、でも……警察に……」
「頭冷やせ! コウヘイが落ちて、トモヒロたちが殺された。生き残ってるのは俺とお前だけだ。こんな状況で真っ先に出て行ったら、間違いなく俺たちが第一容疑者にされるんだぞ!」
アントシの切羽詰まった声が、タイチの鼓膜を打つ。異常すぎる連続死。凶器を持っていたロキすら死んでいる。警察の執拗な尋問、疑いの目、手錠――極度の恐怖と混乱に陥っていたタイチの脳は完全にショートし、正常な判断能力を失っていた。
「と、とりあえずここから離れよう。頭を整理する時間がいる。車に乗れ!」
アントシに背中を押されるまま、タイチは逃げるようにしてミニバンの助手席に転がり込んだ。
エンジンが唸りを上げ、ヘッドライトを消したままのミニバンは、警察の混乱に乗じて滑るように駐車場を抜け出した。
*
日がとっぷりと暮れ、周囲が海鳴りの響く深い闇に包まれる頃、車は海岸線に続く暗い一本道を走っていた。
車内には、行きのような陽気な音楽は流れていない。ただ、単調なエンジンの駆動音だけが重く響いていた。
助手席のタイチは、焦点の定まらない目で暗いフロントガラスの先を見つめていた。
「……なんで、こんなことに」
無意識のうちに漏れたタイチの呟きに、運転席でハンドルを握っていたアントシの肩が微かに揺れた。暗い車内に、押し殺したような笑い声が響く。
タイチが隣を向くと、メーターの仄暗い明かりに照らされたアントシの横顔が、三日月のように不気味に口角を吊り上げていた。
アントシは、真っ暗な前方の道から一切視線を逸らさず、はっきりと口を開いた。
「全部、お前のせいだよ」
暗い車内に響いたアントシのその言葉は、冗談やからかいの類いではなかった。
アントシは前方の暗闇を見据えたまま、淡々と語り始めた。それは、タイチはおろか、この世界の誰も知り得るはずのない「別の世界線」の記憶であった。
「前の世界線での俺はな、お前に惚れてたんだよ。何回もアプローチしてさ。でもお前はそんな俺を気味悪がり、やがて俺に暴力をふるいやがった。」
暗い車内に、アントシの低く粘り気のある声が響く。それはタイチの記憶には全く存在しない、しかし生々しい『過去』の告白だった。
「お前は傷害罪、俺はストーカー扱いで警察に捕まった。その後、完全に精神がぶっ壊れた俺は、鉄格子のある閉鎖病棟にぶち込まれたんだ。全部、お前のせいだ!」
助手席でタイチは息を呑み、シートに背中を押し付けた。理解が追いつかない。アントシが自分へのストーカー? 自分が彼に暴行を加えた?
意味不明な妄言だ。しかし、隣に座る男から発せられる圧倒的な殺意と情欲の入り混じった熱気が、タイチの思考を恐怖で麻痺させていく。アントシは狂っている。そして今、自分はこの狂人と密室に閉じ込められているのだ。
「誰も来ない病室で、ただ天井の染みを数えるだけの毎日だった。30代になっても、見た目は60を過ぎた老人のように干からびて、髪は真っ白になった。そして俺は、孤独の中で32歳で死んだ。だが、死の瞬間に爆発した『許せない』という極限の憎悪が、俺の脳の量子記憶を暴走させたんだろうな。死という境界線を超えて、俺の精神はこの大学入学直後の時間へと『跳躍(ジャンプ)』したんだ。まさに、虚無(ヴォイド)からの帰還ってやつさ」
「目を覚ました時、決めたんだ。お前のまわりの連中を全員殺して、絶望のどん底に引きずり落としてやるってな。」
助手席のタイチの喉から、ひゅっと空気が漏れた。到底信じがたい狂人の妄言だが、アントシの横顔に張り付いた異様な笑みが、冗談ではないことを物語っている。
「どうやってコウヘイたちを……。」
「俺一人じゃ無理だからな。ロキを使ったんだよ。」
アントシは嘲るように鼻で笑った。
「あいつはな、卒業研究のコアになる独自のアルゴリズムを、トモヒロに完全に盗まれたんだよ。しかも教授の目の前で、トモヒロが自分の手柄みたいに涼しい顔で発表しやがってな。ロキは公開処刑されて、研究室での居場所も未来も完全に叩き潰されたんだ。そのどす黒い殺意を利用して、『俺が完全犯罪のシナリオを書いてやる。あいつを殺そうぜ』と唆したら、泣いて喜んで乗ってきたぜ。」
アントシは、まるでゲームの攻略法でも語るかのように淡々と言ってのけた。
「屋上のコウヘイは突き落とした。パニックで林に逃げたノリユキはワイヤーで絞殺。残ったトモヒロは鉄パイプだ。全部、俺が書いた完璧なスクリプト通りに、ロキが動いただけさ」
「じゃあ、なんでロキまで死んでるんだよ!?」
「用済みだからに決まってるだろ。トモヒロが殴り倒されて、お前がパニックになっていたあの数秒間。俺は逃げようとするロキの背後に回り込み、あいつの首筋に即効性の筋弛緩剤を注射した。心不全に見せかけてな。あいつ、自分が殺されるなんて微塵も思ってなかったみたいで、傑作な顔をしてたぜ。」
弱みに付け込んだ共犯者を利用し、連続殺人を実行させた後、最後はその共犯者すらも口封じのために自らの手で始末する。すべてはタイチを絶望させるためだけに仕組まれた、狂気の計画だったのだ。
ヘッドライトが照らし出す一本道は、次第に海沿いの切り立った崖へと近づいていく。
車内に響くエンジン音が、一段と甲高い唸り声を上げ始めた。
第6章:無限の怨念と心中ドライブ
ヘッドライトが闇を切り裂く先、道路は海岸線に沿って大きく左へカーブを描き、その外側は海面へと落ち込む切り立った断崖絶壁となっていた。眼下には、月明かりすら届かない漆黒の海が大きな口を開けて待っている。
「おい、アントシ! ブレーキを踏め! カーブだぞ!」
タイチの悲痛な叫び声が車内に響き渡る。しかし、アントシはステアリングを切る素振りを一切見せず、右足でアクセルペダルを床の奥底まで踏み込んだ。
タコメーターの針がレッドゾーンへと跳ね上がり、エンジンの爆音が夜の闇に狂おしく轟く。ミニバンは減速するどころかさらに猛烈な速度を増し、カーブの頂点へと一直線に突っ込んでいく。
アントシの太い腕が、異様な力でハンドルを握りしめている。その常軌を逸した握力によって、ハンドルの表皮がミシミシと軋む音が、エンジンの甲高い唸り声に混じってタイチの耳に届いた。
「やめろ!! 狂ってる!!」
助手席のタイチが短い悲鳴を上げ、両手で顔を覆って体を丸めた。対照的に、運転席のアントシは前方を見据えたまま、歓喜に満ちた高笑いを上げた。
「あはははははっ! 一緒に地獄へ行こうぜ、タイチ!!」
直後、凄まじい金属音と共に、鉄製のガードレールが飴細工のようにひしゃげて吹き飛んだ。
数トンの鉄の塊が、車輪を空転させながら真っ暗な虚空へと放り出される。重力に引かれた車体は、真っ逆さまに漆黒の海面へと落下していった。
遠く下方の暗闇で、凄絶な水柱と爆発のような破壊音が立ち上り、しばらくして、冷たい波の音だけが再び夜の海を支配した。
*
数時間後。通報を受けた警察と海上保安庁による大規模な捜索隊が崖下の海域をさらい、原形をとどめないほどにひしゃげた車体を引き上げた。
後日、警察の発表により、引き上げられた車体付近から一体の遺体が回収されたことが報じられた。身元確認の結果、それは助手席に乗っていたタイチであった。全身を強く打ち、即死であったと推測された。かつてプログラミングの才能を誇り、若くして成功を収めかけていた青年の、あまりにもあっけない最期だった。
しかし、どれだけ捜索範囲を広げ、日数を重ねても、運転席でハンドルを握っていたはずのアントシの遺体が発見されることはなかった。
ひしゃげた車内にも、付近の岩場にも、海流の先にも、彼が死んだという証拠はおろか、生還した痕跡すら微塵も残されてはいない。
アントシという青年は、一体どこへ消えたのか。
冷たい海の底へ深く沈んでいったのか。それとも、タイチを地獄に落としたという凄絶な達成感と共に、彼の底知れぬ執念が、再び別の時間へと彼を跳躍させたのか。
真実を知る者は、この世界に誰一人としていない。ただ、恐怖と絶望に顔を激しく歪ませたタイチの冷たい骸だけが、そこにあった事実として残されたのである。
*
数年後の春。
桜が舞い散る、ある大学の入学式。
真新しいスーツに身を包んだ新入生たちの列の中に、一人の青年の姿があった。
目力が強く、どこか底知れないタレ目が特徴的なその青年は、満開の桜を見上げながら、三日月のように不気味に口角を吊り上げた。