Zeronicle Story

創作した話や絵を中心に綴るブログ

虹の橋を渡ったモル

虹の橋を渡ったモル

システムエンジニアのイケダにとって、画面の向こう側に広がる複雑怪奇なコードの森は、自分の支配下にある庭園のようなものだった。在宅ワークという孤独な戦場で、彼は次々と利益という名の果実を収穫し続けていた。

その庭園の片隅には、一匹の守護聖人がいた。ジャンガリアンハムスターの「モル」だ。 仕事が一段落し、冷えた白ワインと濃厚なチーズを口にする。それがイケダにとっての聖餐(せいさん)であり、回し車でカラカラと軽快な音を立てるモルを眺める時間は、ささくれだった神経をビロードで撫でるような至福のひとときであった。

しかし、運命は気まぐれなプログラムのように、予期せぬバグを発生させる。

ある夜、モルが食べたものをすべて吐き戻した。その小さな体は、まるで使い古された縮んだ雑巾のように震えていた。急いで駆け込んだ動物病院で告げられたのは、「ガン」という冷徹なエラーメッセージだった。それも、もはや修復不可能な末期の状態だ。

「……先生、何か、何かできることは」
「今は、痛みを和らげてあげることしか……」

獣医の言葉は、氷の楔のようにイケダの心に突き刺さった。懸命な看病もむなしく、二週間後、モルは銀河の塵に還るように静かに息を引き取った。

そこからのイケダは、まるで魂という名のOSを紛失したハードウェアのようだった。 仕事のメールは未読のまま積もり、納品したコードには初歩的なミスが散見された。かつて彼を癒やしたワインは、今や喉を焼くただの苦い液体に成り下がり、部屋の空気は古びた図書館の隅のように淀んでいた。

「イケダ、お前、このままじゃ本当に壊れるぞ」

同僚や友人が声をかけるが、彼の耳には届かない。彼の世界からは色が失われ、すべてがモノクロームの砂嵐に覆われていた。

そんなある日、一通のメッセージが届いた。
送り主は、学生時代からの友人で、妙に勘の鋭い――自称「霊感が強い」アンドウからだった。

『南の海へ行け。そこにお前の探し物がある。』

普段なら鼻で笑い飛ばすような言葉だが、今のイケダには、沈没船が掴む藁のような重みがあった。彼は重い腰を上げ、気づけば晴海埠頭に立っていた。

冬の終わりの海は、巨大な紺碧の鏡のように冷たく、それでいて包容力に満ちていた。
打ち寄せる波の音は、地球が深く呼吸をしている鼓動のようであり、遠くで鳴り響く汽笛は、過去と未来を繋ぐ合図のように聞こえた。
潮風が、頬にこびりついた悲しみの澱(おり)を少しずつ削り取っていく。

「少し、寒くなったな……」

冷えた体は、物理的な温もりを求めた。
イケダは近くの大型商業施設へと足を向けた。
目的のフードコートを探して広い通路を歩いていると、ふと、一角で足が止まった。

ペットショップだった。

無意識に引き寄せられるように、彼はガラスケースの前へ進んだ。
清潔だがどこか切ない動物の匂いが鼻をくすぐる。 そこで、彼は「それ」を見た。

「……モル?」

声が震えた。 小さなケージの中にいたのは、亡くなったモルと瓜二つの模様を持つハムスターだった。
背中のグレーの筋、少し右に寄った鼻先の白。
その個体は、他のハムスターたちが無心に餌を食んだり眠ったりしている中で、ただ一匹、立ち上がってじっとイケダを見据えていた。

その瞳は、深淵な宇宙を凝縮したような黒い輝きを放っている。
それは偶然の産物か、あるいはアンドウが予言した再会なのか。

イケダがガラス越しに指を近づけると、ハムスターは逃げるどころか、小さな鼻をピクピクと動かして、彼の指の温度を確かめるように身を寄せた。
その瞬間、イケダの凍りついていた心の氷壁が、春の陽光を浴びた雪解け水のように、音を立てて崩れ落ちていった。

視界が急に滲み、色彩が戻ってくる。 海で聞いた汽笛の音が、今度は彼の胸の中で高らかに鳴り響いた。