
第三部:筋トレは俺たちを裏切らない
1. 絶望のデッドライン
その日、オフィスには終末予言の前日のような空気が漂っていた。 全社的なシステム入れ替えに伴う、サーバー移転作業。オガワたちの部署にとって、絶対にミスが許されない一大プロジェクト「タイタン計画」の決行日だ。
しかし、マーフィーの法則は健在だった。 午後3時。最も重要な物理サーバー3台を、別棟4四階サーバルームへ移動させようとした矢先のことだ。 「ガクン」という不吉な音と共に、業務用エレベーターが沈黙した。 さらには、手配していた配送業者のトラックが事故渋滞に巻き込まれ、到着まで2時間はかかるという連絡が入った。
「嘘だろ……完了報告まで、あと1時間しかないんだぞ」
課長の顔色が、漂白されたワイシャツよりも白くなった。 システム稼働のリミットは午後4時。それを過ぎれば、全社の業務が停止し、巨額の損失が発生する。
「誰か、階段で運ぶしかない!」
課長が悲鳴のように叫んだ。
だが、誰も動けなかった。 対象のサーバーは1台約40キロ。精密機器のため、台車でガタガタと運ぶわけにはいかない。人間が手で持ち、振動を与えないように慎重に運ぶ必要がある。 しかも、階段で4階までだ。 もやしっ子揃いのシステム部の面々にとって、それはエベレスト登頂に等しい無理難題だった。
オフィスの空気が凍りつく中、一人の男が立ち上がった。 オガワだった。 ワイシャツの袖をまくり上げると、鍛え上げられた前腕が、まるでこれから獲物を狩る肉食獣のように隆起した。
「課長、俺が行きます」
2. 階段という名の修羅場
「無理だオガワ! 40キロだぞ! 腰が砕ける!」
イケハタが止めるのも聞かず、オガワはサーバーの前に立った。
彼には、その黒い金属の箱がただの機械には見えなかった。 (40キロ……。ダンベルプレスならウォーミングアップ。バーベルカールなら目標重量。いける)
オガワは足を肩幅に開き、腰を落とした。完璧なスクワットのフォーム。 背筋を一直線に伸ばし、腹圧を高める。体幹という名のコルセットを締め上げる。
「ふんッ!」
短く息を吐き、サーバーを持ち上げた。 重い。重心が不安定で、持ちにくい。バーベルのように素直ではない。 だが、オガワの筋肉は歓喜していた。
(そうだ、この負荷だ。この重力が、俺が生きている証だ)
「運ぶぞ!」
オガワは歩き出した。一歩、また一歩。 階段を上り始める。 一段上るごとに、太ももの大腿四頭筋が熱を持ち、悲鳴を上げる。それは焼けるような痛みだが、オガワにとっては脳内麻薬のスイッチだった。
1台目を4階に運び終えたとき、オガワは既に汗だくだった。 息を整える間もなく、2階へ降り、2台目を担ぐ。 社員たちが呆然と見守る中、オガワは黙々と往復を続けた。 しかし、3台目。最後のサーバーを持ち上げたとき、オガワの膝がガクリと笑った。
「……っ!」
疲労がピークに達していた。握力が限界を迎え、指の感覚がない。 階段の踊り場で、オガワの足が止まった。 重い。地球の重力が、普段の3倍になったかのように感じる。 サーバーが手から滑り落ちそうになる。ここで落とせば全てが終わる。
「くそっ……」
足が出ない。 その時だった。
「貸せよ!」
横から手が伸びてきた。 イケハタだった。
3. 共鳴する鼓動
「イケハタ……」
「馬鹿野郎!見てられねえんだよ!お前一人でカッコつけてんじゃねえ!」
イケハタは顔を真っ赤にして、サーバーの片側を掴んだ。 華奢な腕が小枝のように震えている。額には脂汗が滲み、目には涙が浮かんでいる。 かつてラグビー場で吹き飛ばされたトラウマが、イケハタの脳裏をよぎる。
(重い。痛い。苦しい。やっぱり俺には向いてない)
だが、隣にはオガワがいた。
「イケハタ、背中だ! 腕で持つな、背中で引くんだ! 肩甲骨を寄せろ!」
オガワが叫んだ。
「うるさい! 脳筋が! 指図するな!」
イケハタは悪態をつきながらも、必死に食らいついた。
二人は並んで階段を上った。
「いち、に! いち、に!」
いつの間にか、掛け声を合わせていた。 オガワの強靭な筋肉と、イケハタの必死の根性が、一つの重荷を支えていた。
イケハタは不思議な感覚の中にいた。 苦しい。肺が破裂しそうだ。 だが、かつてのような孤独な苦しみではなかった。 隣で荒い息をつくオガワの熱気が伝わってくる。筋肉の軋み、汗の匂い、心臓の鼓動。 それらがシンクロし、「生きている」という強烈な実感が、乾いた心を潤していく。
(これが……オガワが見ていた世界か)
痛みの中に、確かな達成感の種があった。 ただの苦痛だと思っていたものが、前に進むための推進力に変わる瞬間。
「あと3段! 出し切れイケハタ!」
「わかってるよ、この……筋肉ダルマ!」
2人は最後の力を振り絞り、4階のサーバルームになだれ込んだ。
「設置、完了!」
サーバーをラックに収めた瞬間、2人は床に大の字になって倒れ込んだ。
時計の針は、午後3時55分を指していた。
4. 筋肉は裏切らない
システムは無事に稼働した。 オフィスの皆が歓声を上げ、課長が涙を流して感謝している。 だが、給湯室の隅でへたり込んでいる2人には、そんな騒ぎは遠い世界の出来事のようだった。
「……腕、パンパンだ」
イケハタが天井を見上げたまま呟いた。
「ああ、明日は酷い筋肉痛になるぞ。プロテイン、飲むか?」
オガワがロッカーからシェイカーを取り出した。
いつもなら「そんな怪しい粉」と拒絶するイケハタが、震える手でそれを受け取った。
一気に飲み干す。
「……不味い。なんだこれ、バナナ味か?」
「チョコバナナ味だ。最高だろ?」
二人は顔を見合わせ、吹き出した。 イケハタの目から、憑き物が落ちたような色がしていた。 過去の敗北も、劣等感も、階段の途中に置き去りにしてきたようだった。
「オガワ、撤回するよ」 イケハタがポツリと言った。 「脳筋も、悪くない。……少なくとも、ピンチの時には役に立つ」
「そうだろう? 筋肉は裏切らないんだ」 オガワが得意げに上腕二頭筋を見せつける。
「でもな」
イケハタはニヤリと笑った。
「その筋肉を動かすのは、やっぱり脳みそだろ? 俺のサポートがなけりゃ、お前、3階で潰れてたぜ」
「……違いない」
オガワは素直に認めた。 1人では限界があった。異なる強さを持つ2人が支え合ったからこそ、重力に勝てたのだ。
5. エピローグ:新たなセットの始まり
数ヶ月後。 『24時間営業 会員制ジム』
「おいイケハタ、背中が丸まってるぞ。もっと胸を張れ」
「うるさいな、わかってるよ! ……くそっ、これ本当に20キロか? 地球の重力おかしくないか?」
ベンチプレスと格闘するイケハタの姿があった。 まだバーベルの重さは軽いが、その表情は真剣だ。 オガワは補助に入りながら、友人の成長を見守っていた。
イケハタはまだ「脳筋」には程遠い。相変わらず些細なことで悩むし、愚痴も多い。 だが、悩み事があると、「とりあえずスクワットで発散するか」と言うようになった。 彼の繊細な硝子の心は、筋肉という名の強靭な鎧で、少しずつ補強され始めていた。
「よし、ラスト1回! 挙げろ!」
「うおおおお!」
鉄の音がジムに響く。 汗と熱気、そして笑い声。 2人の人生という名のトレーニングは、まだ始まったばかりだ。 どんなに重い困難が降りかかろうとも、彼らはもう大丈夫だろう。 彼らには、裏切らない筋肉と、背中を預けられる相棒がいるのだから。
(終わり)