ITエンジニア、イケダの日常は、0と1で構築された堅牢な論理の世界に完結していた。 しかし、そんな彼でも抗えない物理的な例外が発生した。右下腹部を、熱した鉄棒でかき回されるような激痛が貫いたのだ。診断は「急性虫垂炎」——いわゆる盲腸だった。
「いいですか、術後は絶対安静。仕事のメールなんて論外ですよ」
看護師に厳重に釘を刺され、イケダのスマートフォンとラップトップPCは枕元に封印された。手術は無事に終わったものの、一週間の入院を余儀なくされた。
深夜の病室は、昼間の喧騒が遠い前世の記憶であるかのように、耳が痛くなるほどの静寂に包まれていた。聞こえるのは、規則的な心拍を刻むモニターの電子音と、遠くでかすかに響く空調の、内臓を揺するような低周波だけだ。
「……あ、そういえば」
イケダは、昼間に隣のベッドの老人から聞いた噂を思い出した。
『深夜二時を過ぎると、誰もいないはずの廊下を、カラカラと乾いた音を撒き散らしながら徘徊する「何か」がいる。それを見た者は、病が長引く……』
よくある病院の怪談だ。イケダはエンジニアらしく、音の正体を推測した。
「古くなった給食カートの車輪の軋みか、あるいは配管内のウォーターハンマー現象だろう」と。
ログの取れない現象など、この世には存在しない。
しかし。
(……カラ、カラ……カラ……)
午前二時を回った頃。静寂のレイヤーを切り裂いて、そのノイズは侵入してきた。 最初は廊下の突き当たり、ナースステーションのあたりからだった。 乾燥した骨を打ち鳴らすような、無機質で執拗な音が、冷たいリノリウムの床を這って近づいてくる。
(……カラ、カラ、……カラ……)
イケダは寝返りを打ち、入り口を凝視した。 病室のドアは数センチだけ開いている。隙間から漏れる廊下の常夜灯が、青白い死装束のような帯となって床に伸びていた。 音の主が、ドアの前で止まった。
イケダの心拍数(クロック)が跳ね上がる。脳は「視認して原因を特定しろ」とデバッグを命じているが、身体は凍りついたように動かない。 彼は重い体を引きずり、痛む腹を押さえながら、ゆっくりとベッドを降りた。 一歩。また一歩。 ドアの隙間に顔を寄せる。
そこには、誰もいなかった。
左右に長く伸びる廊下には、人影一つない。ナースステーションも無人で、ただ無機質な白い光が、誰もいない空間を暴力的なほど鮮明に照らしているだけだ。
「……なんだ。ただの共振か」
イケダが安堵の息を吐き出そうとした、その時だった。
(カラ、カラ、カラ!!)
真後ろ、しかも至近距離で音がした。 背筋に氷を押し当てられたような悪寒が走る。振り向くと、そこには「誰も乗っていない車椅子」が、病室の中央に鎮座していた。 数秒前まで、そこは確実に「空」だったはずだ。
車椅子の背もたれには、古びた今の病院の規格にはない茶色い革のカバンが掛けられていた。 車輪は、まだゆっくりと回っている。
(カラ……カラ……)
車輪が一周するたびに、カバンの中に詰められた「何か」が、中の金具に当たって音を立てているのだ。 イケダは動けなかった。 車椅子は、まるで見えない重い何かが座っているかのように、ぎりぎりと軋みながら深く沈み込んでいる。そして、その背もたれの上には、「黒い霧のようなもの」が、人の頭の形を模してドロリと揺らめいていた。
影は、ゆっくりとイケダの方へフォーカスを合わせた。 顔があるべき場所には、底の見えない虚無の穴が二つ、こちらを凝視していた。
(……あ……あ……)
湿った土の匂いと共に、声にならない呻きが影の口元から漏れる。 イケダは恐怖で足がすくんだが、影は彼を襲う風でもなかった。ただ、じっと彼を見つめ、個体を確認するように一瞬だけ静止すると、車椅子は再び自律走行を開始した。
(カラ、カラ、カラ……)
車椅子はイケダの脇をすり抜け、開いたドアから廊下へと滑り出していく。 廊下の真ん中まで来ると、車椅子はまるで水面に沈むように、あるいはノイズが消えるように、リノリウムの床へと静かにフェードアウトしていった。 残されたのは、微かな消毒液の匂いと、凍りつくような沈黙だけだった。
翌朝。
「イケダさん、顔色いいですね! 傷の治りも早そう」
検温に来た看護師が明るく言った。
(本当かよ…。あれからあまり眠れていないのに…。)
イケダはふぅっと大きなため息をついた。そのあとで昨夜のことを切り出そうとしたが、結局はやめた。 あの車椅子が何だったのか。あの影の正体は何なのか。 論理的な説明はできないだろう。
ただ一つ分かっているのは、あの影はイケダを連れて行こうとしたのではなく、単に「巡回」し、入院患者の生死を仕分けていただけだった、ということだ。
「……あの、この病院に昔からある車椅子で、茶色のカバンが乗ってるものってありますか?」
「え? いえ、うちは全部最新のアルミ製ですよ。カバンなんて、誰かの忘れ物かしら?」
結局、謎は解けなかった。 イケダは予定通り一週間で退院した。
それ以来、彼は深夜に「カラカラ」という音を聞くと、それがたとえ近所の犬の散歩であっても、全身の毛穴が逆立つような感覚に襲われるようになった。 だが、一つだけ奇妙な変化があった。 退院後のイケダが書くコードには、どれほど複雑なシステムであっても、原因不明の「バグ」が一つも出なくなったという。 まるで、あの日、誰かにシステムを完全にクリーニングされたかのように。