
蒸し暑い夏の夕方、帰宅ラッシュの真っ只中。私が乗り込んだ山手線の車内は、家路に急ぐ人々の体温と湿気で息が詰まるようだった。
じっとりとした汗が肌にまとわりつく。微弱なエアコンの冷風は、むわりと立ち込める不快な空気をかき混ぜるだけで、何の慰めにもならなかった。
新宿駅に着き、案内が流れると共に扉が開く。人の波がどっとホームへ吐き出される。私も降りようとしたのだが、私の前に立つ一人の男が、微動だにしない。
後ろ姿しか見えないが、背が高く、痩せた男ということはわかった。私の後ろから「すみません、降ります!」という声がするが、男が反応する様子がない。ただ立っているだけだ。
まるで根が生えたかのように、ただ前を見つめている。
「おい、どけよ」
誰かが悪態をついた。それでも男はピクリともしなかった。
私も舌打ちしながら、その男の肩と扉の隙間に体をねじ込んで外に出ようとした。
その時、男の横顔が視界の端をかすめた。ほんの一瞬だったが、その表情は私の脳裏に焼きついて剥がれない。
まるで血の気を失ったかのように真っ青な顔。滝のように流れる冷や汗。そして、固く閉じられた唇が、かすかに震えているのがわかったのだ。
何かを必死にこらえている。私にはそんな顔のように見えた。
私は気味悪く思いながらも、無理やりホームに体を押し出し、なんとか外に出ることができた。
私が外に出てからも、男は動かなかった。何人かの男女が、男に体をぶつけながら外に出てくる。中には「なんなんだよ。」とでも言いたげに男を睨んだものもいたが、その異様さに気圧されたのか、そそくさと立ち去った。
その時だった。男の押し殺したような声が聞こえたのだ。
「……ぃま、だッ!」
何が起きたのだと呆然と見ていたら、あの男がまるで何かに突き飛ばされたかのように、電車から転がり出てきた。
はじけ飛ぶかのようにホームに飛び出してきた男は、ホームに膝をつき、ぜえぜえと激しく肩で息をしている。
私は男がホームに飛び出してきた瞬間、ありえない光景を見てしまった。その信じられない光景はまるで網膜に焼き付いたかのようだ。それだけ印象が強く、衝撃的だったのだ。私の理解は追いつかない。脳が見たままの映像を拒否しているかのようだ。
男が電車から飛び出した一瞬の間に、私が見たもの。
それは、黒く濡れた髪の毛のようなものが、何本も絡みついていた男の背中だった。そしてその後ろには、恐ろしい形相をした女が透けて見えていた。
女はまるで、無数の髪を操り、この男を電車の中から逃がさないように、縛り付けているように見えた。
私は恐怖で足がすくんでいた。
やがて発車のベルが鳴り響き、扉が閉まっていく。
男はしばらく動けずにいたが、やがて私の視線に気づくと、血走った目で、かすれた声でこう言った。
「あんたも……気をつけなよ……」
「俺は……運がよかったんだ……」
それ以来、私は電車に乗るのが怖くなり、あの車両には乗らないようにした。
あの女は何だったのだろう。電車の事故で亡くなった女性なのだろうか。
ずいぶん時間がたった今でも、真相はわからない。