Zeronicle Story

創作した話や絵を中心に綴るブログ

洗わない男

会社の先輩に、佐伯さんという人がいる。
仕事はできるし、穏やかで、誰からも信頼されていた。
……ただ一つだけ、奇妙な癖があった。

――彼は、トイレのあとに絶対、手を洗わない。

初めは偶然かと思った。急いでいたんだろう、と。
でも違った。
何度見ても、彼は洗面台を素通りして出ていく。

正直、不潔だと思っていた。
けれど、それが――恐怖に変わったのは、あの日だ。

その日、私はトイレで佐伯さんと一緒になった。
個室から出てきた彼が、珍しく洗面台の前に立ち止まった。
鏡の中の自分を、食い入るように見つめている。
そして……ゆっくり、蛇口へと手を伸ばした。

――ビクッ。

まるで見えない何かに触れたように、彼の体が跳ねた。
手は空中で止まり、指先が、痙攣するように震えている。

「……だめだ……洗えない……洗ったら……彼女が……」

彼の顔は真っ青だった。
蛇口から落ちる水の音が、異様に響く。

その後、人気のない給湯室で、彼はぽつりぽつりと語り出した。

昔、婚約者の美咲という女性がいた。
潔癖症で、特に彼の手を気に入っていたという。
「あなたの綺麗な手が好き」
「デートの前には、ちゃんと洗ってね」
いつもそう言っていた。

三年前の雨の日、些細な口論の末に、美咲さんは部屋を飛び出した。
すぐに追いかけた佐伯さんが見たのは――
車道に横たわる、彼女の姿だった。

雨と泥で汚れた手を伸ばし、彼女はかすれた声で言った。
「……どうして……その手で、触ってくれないの……」

その一瞬のためらいのあと、彼女は、動かなくなった。

――それから、佐伯さんは手を洗えなくなった。

水に触れるたび、鏡の中に美咲さんが現れるのだという。

『洗わないで』
『お願い……あの時のままでいて』
『洗ったら……あなたを、連れていくから』

彼は震える声で言った。
「だから俺は……洗わないんだ。彼女を、怒らせたくないから……」

その手を、見せてもらった。
黒ずみ、ひび割れ、皮がめくれ……まるで別人の手のようだった。

けれど、掌の中心に――
赤黒い痣が、くっきりと浮かんでいた。

それは……まるで。

誰かが“今も”そこに指を絡めているように見えた。