
夏休みももう終わる。
僕、ケンタはあの蒸し暑い日のことを、生涯忘れることはないだろう。いや、忘れようにも、僕に「忘れる」という機能が、まだ残っているのかどうか……。
そして、僕は人として生きていけるだろうか……。
事の始まりは些細な喧嘩だった。親友のユウヤと夏休みの宿題のことで言い合いになり、僕は彼を突き飛ばしてしまった。ユウヤは泣きそうな顔で僕を睨み、「ケンタなんてもう知らない!」と叫んで走り去った。僕の胸には、棘のように罪悪感が突き刺さっていた。
一人になった公園はやけに静かだった。セミの声すらどこか遠くに聞こえる。僕は言いようのない後悔と自己嫌悪に苛まれながら、誰もいない砂場に座り込んでいた。
その時だ。
目の前を何かが横切った。
それは一匹のトンボだった。だが、その姿は尋常ではなかった。まるで、夕焼けの血をすべて吸い込んだかのような、どす黒い赤色。熟しきって腐る寸前の果実のような、目を背けたくなるほど濃厚な深紅。
僕はその不気味な美しさに魅入られた。後悔で澱んでいた僕の心を、そのトンボだけが理解してくれているような奇妙な錯覚に陥ったのだ。
トンボは僕を誘うようにふわりと舞い、森の奥へ、奥へと消えていく。僕は何かに憑かれたように、トンボを追いかけた。
行き着いた先は、公園の隅にある古びた社だった。大人たちから「あそこには入っちゃいけない。悪いものがいるから」と固く禁じられていた場所だ。苔むした鳥居が、まるで巨大な獣の肋骨のように空に突き出している。
鳥居をくぐった瞬間、空気が変わった。湿った土と黴の匂い。そして、ひんやりとした何者かの視線。深紅のトンボは、朽ちかけた祠の扉にまるで標本のように張り付いていた。
なぜ、あの時に限って僕は虫かごなど持っていたのだろう。まるで、この出会いが予め定められていたかのように。僕は、それが当然の義務であるかのように、吸い寄せられるようにして持っていた虫かごへトンボを収めた。網の中で暴れることもなく、トンボはじっと僕を見つめていた。その複眼が「カタ」と微かな音を立てたような気がした。
家に帰り、自室の机に虫かごを置く。中を覗き込むと、トンボの複眼がまるで万華鏡のように無数の小さな光を反射していた。そして、その中心にユウヤの泣き顔が見えた気がして、僕は慌てて目をそらした。
その夜、僕は夢を見た。
僕はあの深紅のトンボになっていた。自分の部屋を、ふわりと飛んでいる。眼下では父さんと母さんが、僕のことで口論していた。「お前の育て方が悪い」「あなたこそ、あの子を見ていないじゃない」。二人の口から吐き出される棘のある言葉は、黒い靄となって立ち上り、僕の体に吸い込まれていく。靄を吸うたびに、僕の翅はさらに深く、燃えるような赤色に染まっていった。そして、不思議なことに、靄を吸い尽くすと、両親の口論はピタリと止み、二人は何もなかったかのように無表情で自室に戻っていった。
夢から覚めると、全身が汗でぐっしょり濡れていた。恐る恐る虫かごを見る。深紅のトンボは、昨日よりも明らかに深い深い紅の色になっていた。まるで、血を吸って満腹になったかのように。
階下に降りると、食卓は不気味なほど静まり返っていた。いつもなら、朝のニュースを巡って言い合っているはずの両親が、黙ってトーストをかじっている。僕が「おはよう」と言っても、二人は虚ろな目で僕をちらりと見るだけで、何の反応も返さない。まるで、感情というものが抜き取られてしまった人形のようだった。
僕は悟った。あのトンボは人の負の感情を「喰らっている」のだ。喧嘩も、後悔も、悲しみも、すべて無かったことにしてくれる。ただし、その代償として、感情そのものを魂ごと根こそぎ奪い去っていくのだ。
恐怖が背筋を駆け上った。僕は学校へ駆け出し、ユウヤを探した。昨日、あれほど酷いことをしたのだ。謝らなければ。
ユウヤは、教室で友達と笑っていた。僕を見つけると、にこやかに手を振る。
「ケンタ、おはよ!昨日はごめんな、俺も言い過ぎたよ」
あまりに普通なその態度に、僕は言葉を失った。しかし、彼の目に近づいた時、気づいてしまった。その瞳の奥には、何の光も宿っていなかった。昨日僕が見た、泣きそうな彼の面影はどこにもない。彼は、ただ「親友と仲直りする」という役割を演じているだけに見えた。
もう駄目だ。こいつを、このトンボを、元の場所に返さなければ。
僕はその日の放課後、虫かごを掴んで再びあの社へと向かった。早く、早くしないと、僕の大切なものが、僕自身が、空っぽになってしまう。
社の鳥居をくぐり、祠の前までたどり着く。僕は震える手で虫かごの蓋を開け、トンボを外に放とうとした。
その時、虫かごの中のトンボがゆっくりと翅を広げた。その複眼が僕の顔の真正面にくる。
『カエサナクテイイノニ』
声が頭の中に直接響いた。男の子のような、女の子のような、幾重にも重なった声。
『モウ、ガンバラナクテイイノニ。キズツクコトモ、キズツケルコトモナイ。ソンナクルシイモノハ、ゼンブワタシガタベテアゲル』
見ると、トンボの複眼の一つ一つに、苦悶の表情を浮かべた子供の顔が映り込んでいた。彼らはこのトンボに「救い」を求めてしまったのだろうか。
「いやだ…!」
僕が叫んだ瞬間、トンボは虫かごから飛び出し、僕の額にピタリと張り付いた。ひんやりとした足が、僕の皮膚に食い込む。
そして、僕の最後の感情である「恐怖」が、急速に吸い上げられていくのを感じた。頭が白くなり、体が軽くなる。ああ、楽になる。もう、何も考えなくていいんだ。
意識が薄れゆく中、僕は見た。
社の祠の周りの地面が、びっしりと、おびただしい数の深紅のトンボで埋め尽くされているのを。
そして、僕自身の口から、一匹の小さな、生まれたてのような深紅のトンボが、ふわりと吐き出されるのを。
どれくらい時間が経ったのだろう。意識が戻った時、世界はまるで違って見えた。
父さんと母さんが、僕の名前を呼びながら駆け寄ってくるのが見える。心配そうな顔。ああ、またあの黒い靄が生まれてしまう。
けれど、それはもはや僕を苛むものではなかった。ただ、腹を満たすための糧にしか見えない。
僕は、無意識に空を見上げた。
夕焼け空を一匹の深紅のトンボが優雅に舞っている。
それを見るとなぜだかとても安心した。僕の口元には自然と笑みが浮かんでいた。
ああ、お腹が空いた。
僕は、目の前にいる両親をねっとりとした視線で見つめた。