
その朝、みわは一人娘のはるかから、小さな包みを手渡された。小学校低学年の娘が、はにかみながら差し出したそれ。包みの中から現れたのは、手縫いの人形だった。
歪なフェルトの胴体に、毛糸の髪。そして、顔には不釣り合いなほど大きな、二つの黄色いボタンが縫い付けられていた。
「ママのお守り。私が作ったお人形が、悪いものから守ってくれるよ。」
娘はそう言って、みわの手に人形を握らせた。その瞳は、子供らしい無邪気さとは少し違う、妙に真剣な光を宿していた。
みわの胸が、罪悪感でちくりと痛む。最近、娘が妙に甘えてきたり、夜中に「ママ、どこにも行かないよね?」と尋ねてきたりすることが増えた。
子供は敏感だ。母親の心に巣食う秘密の匂いを、その小さな鼻で嗅ぎつけているのかもしれない。
「ありがとう、はるか。大事にするね。」
みわは無理に笑って人形を受け取ると、通勤用のバッグにそっとしまい込んだ。
高層ビルの摩天楼が宝石を散りばめたように煌めく夜。そんな高層ビルの一室で、残業を口実にオフィスに残ったみわとまさかずが、互いの肌の温もりを確かめ合っていた。
だが、みわの心は朝娘からもらった人形に引っ張られるかのように重かった。
彼女は、気分を変えるようにバッグからその人形を取り出し、デスクの隅に置いた。隣には、夫と娘と三人で笑う、家族写真が立てかけてある。人形は、まるでその写真の番人のように、ちょこんと座っていた。
「なんだ、それ?」
まさかずが、人形を覗き込む。
「娘が…。なんだか、気味が悪いでしょう?この、黄色い目」
「ああ…子供が作ったにしては、妙に目力があるな」
その時だった。カタン、と小さな音がして、家族写真を立てかけていたスタンドが倒れた。写真が机の上にぱたりと伏せられる。まるで、何かが見ることを許さないとでも言うように。
二人は顔を見合わせた。ただの偶然。そう思おうとしたが、一度生まれた不穏な空気は、澱のようにオフィスに沈殿していった。
まさかずは、その空気を断ち切るように、人形をひょいと掴んだ。
「こいつのせいかな。見てるぞってか?」
彼はそう言って笑うと、みわのデスクの一番下の引き出しに人形を放り込み、ピシャリと閉めた。
「これで、もう見られないだろ。」
しかし、その行為が取り返しのつかない過ちの始まりになるとは、誰も知らなかった。
一週間後の金曜日。
二人はまた懲りずに誰もいないオフィスでお互いの温もりを確認していた。二人はお互いの体を撫であい、激しい口づけを交わしていた。
先週の出来事は、昼間の喧騒の中では馬鹿げた思い過ごし。そうに違いない―。
だが、二人が愛を確かめ合っているとき、突如ソレは始まった。
誰もいないはずのフロアの奥から、ひそやかな囁き声が聞こえる。
「ママ…かえってきて…」
子供の声だ。みわは凍りついた。まさかずも、耳を澄ませている。この声はなんだ―。
声は、空調の音に混じって、途切れ途切れに聞こえてくる。
「はやく…元のママに…かえってきて…」
「な、なんだこれは!」
まさかずが叫んだ。
「もう帰るぞ!早く!」
恐怖に駆られ、二人は荷物をひっつかんで出口へと走った。
みわが、電子ロックのドアに手をかけた、その瞬間。
ゴォン……ッ!
まるで、古い寺の鐘を突いたかのような、重く低い音がフロア全体に響き渡った。
カードリーダーのランプが消え、ドアは完全に沈黙する。手動のカギもびくともしない。みわは悟った。これは「なにか」が私たちをこの場所から出さないつもりなのだ―と。
その絶望的な理解と同時に、彼女の背後で、ギィ…と、あの引き出しがひとりでに開いていく。
暗い隙間から、二つの黄色い点が、ぼうっと浮かび上がった。
それは娘が作った人形だった。
人形は引き出しからずるりと這い出ると、床を擦る不気味な音を立てて、ゆっくりと進み始めた。みわとまさかずの前を通り過ぎ、フロアの中央でぴたりと止まる。
そしてその黄色い瞳は、はっきりとまさかずだけを捉えた。人形の周囲の空気だけが、急に冷え込んでいく。
「穢れ」
凛とした、子供の声が響いた。それは、母を穢すもの、家庭を壊すもの、浄化の儀式における最初の贄に向けられた、冷たい宣告のようだった。
「ひっ…!」
まさかずが情けない声を出して後ずさる。次の瞬間、彼の巨体は、まるで見えない力に絡め取られ、宙に吊り上げられるようにして、猛烈な勢いで壁に叩きつけられた。ガラスのパーテーションが派手な音を立てて砕け散る。
彼は呻き声一つ上げることなく、ぐったりと動かなくなった。
オフィスに静寂が戻る。みわは声も出せない。『贄』は、捧げられたのだ。
そして、人形はゆっくりとみわの方へ向き直った。あれほどの威圧感は消え、ただ静かに、床を滑って近づいてくる。
恐怖で動けないみわの足元で止まると、人形はその顔をゆっくりと上げた。
「これで、かえれるね、ママ」
その声はもう囁き声ではなかった。儀式を終え目的を達した安堵感に満ちた、幼い子供の穏やかな声だった。
みわは、その言葉を最後に糸の切れた操り人形のように崩れ落ちた。
週明けの月曜の朝。
出社してきた社員が発見したのは、凄惨な現場だった。
まさかずはオフィスの隅で全身を強く打って気を失い、失禁していた。みわは自分のデスクの前で抜け殻のように座り込んでおり、その足元には小さな水たまりが広がっていた。
彼女の髪はまるで雪を被ったかのように真っ白に変色し、その手には一枚の家族写真が固く握りしめられており、膝の上には娘が作った手縫いの人形が、まるで母に甘えるように、ちょこんと座っていたという。
その黄色い瞳は、役目を終えた満足感からか、どこか穏やかにさえ見えたそうだ。