これは、都会での暮らしに疲れ、少し離れた田舎町に引っ越した、ある男の話でございます。
男は、テレビで「一駅手前で降りて健康ウォーキング」という特集を見て、鼻で笑ったそうでございます。
「こっちの一駅を舐めるなよ」と。
しかし、ある金曜日の夜。
少し酒が入っていたこともあり、男はふと、試してみたくなったのです。
「まあ、たまにはいいか。月も出ているし、酔い覚ましにちょうどいいだろう。」
そんな、本当に、軽い気持ちでございました。
最寄りの一つ手前の駅で降りると、ホームには案の定、自分以外誰もおりません。
駅員もいない無人駅で、改札を出ると、ひんやりとした夜風が首筋を撫でました。
「さて、歩くか」
最初は快適だったそうでございます。
虫の声が心地よく、アスファルトではない、土の混じった道の感触が懐かしい。遠くで犬が吠える声が聞こえるくらいで、あとは自分の足音だけが響きます。
しかし、10分も歩くと、景色は一変いたしました。
ぽつぽつとあった民家の明かりは完全に消え、道は鬱蒼とした木々に覆われた一本道になったのです。
頼りの月も、厚い雲に隠れてしまいました。
「…おいおい、こんなに暗かったか?」
自分の足元すらおぼつかないほどの暗闇。スマートフォンのライトをつけますが、その光が照らすのは、せいぜい数メートル先まで。光の輪の外側は、まるで墨を流したように、ただただ黒い。
不安が、じわりと胸に広がります。
まだ家まで半分も着いていないでしょう。
その時でした。
サッ…
後ろから、砂利を踏むような音が聞こえたのです。
男は足を止めました。
音も、ぴたりと止まります。
(気のせいか…?小動物か何かだろう)
そう思い、再び歩き始めます。
すると、また。
サッ…サッ…
今度は、はっきりと聞こえました。
自分と同じ歩調で、すぐ後ろをついてくる足音。
しかし、一人分ではございません。二つ、いや、三つ…?
男は、背中に冷たい汗が流れるのを感じながらも、振り返る勇気が出ません。
ただ、歩く速度を少しだけ速めました。
すると、後ろの足音も、同じように速くなるのです。
サッ、サッ、サッ、サッ…
まるで、男の歩き方を真似するように。
面白がっているかのように。
もう我慢できません。
男は、意を決して、勢いよく振り返りました。
しかし、スマートフォンのライトが照らす先には、誰も、何もおりません。
ただ、闇に続く一本道があるだけ。
「…な、なんだよ…」
安堵のため息をつき、再び前を向いて歩き出そうとした、その瞬間。
「次は、わたしの番」
耳元で、幼い少女のような声が、はっきりと囁いたのです。
男は絶叫し、夢中で走り出しました。
もつれる足を必死に前に出し、息が切れ、肺が張り裂けそうになっても、止まりません。
後ろからは、もう足音だけではございませんでした。
少女の甲高い笑い声。
老婆のしゃがれた咳払い。
男の低い唸り声。
そして、大勢の足音が、まるで運動会のように、楽しげに追いかけてくるのです。
サッ!サッ!サッ!ザザザザッ!
「一緒に歩こうよぉ」
「まだ着かないのかねぇ。」
「都会の人は足が速いんだなぁ。」
ようやく、遠くに自宅の明かりが見えました。
男は、最後の力を振り絞って玄関のドアに飛びつき、鍵を閉め、床に崩れ落ちました。
「はぁ…はぁ…はぁ…」
荒い息を整えながら、恐る恐る、ドアスコープから外を覗きます。
…誰もいません。
いつもの、静かな田舎の夜の風景が広がっているだけ。
(夢…だったのか…?)
そう思った、その時。
ドン。
玄関のドアが、内側に少しだけ、しなるように揺れました。
ドン。ドン。ドン。
誰かが、いや、「何か」が、ドアに体をぶつけているような、鈍い音。
そして、ドアの向こう側から、大勢の声が、楽しそうに言ったのでございます。
「あーあ、着いちゃった。」
「ここがおうちなんだ。」
「また歩こうね。」
「次は、次の駅まで。」
「ずーっと、ずーっと、一緒にねぇ…。」
それ以来、男は決して、一つ手前の駅で降りることはなくなったそうでございます。
ええ、田舎の一駅を歩くということは、そこに眠る、道半ばで力尽きた者たちを、呼び覚ましてしまうということなのかもしれませんね…。