Zeronicle Story

創作した話や絵を中心に綴るブログ

こおろぎじじいの祟り ~神社の掟を破った少年の末路~

第一章:鎮守の森の掟

しげる、さとる、たつるの三人は、学校が終わるとランドセルを放り出し、決まって町の外れにある白髭神社へと駆け出した。そこは彼らにとって、秘密の遊び場であり、冒険の舞台だった。

苔むした石段、天を突くようなご神木、そして静寂を破る鳥の声。都会の喧騒から切り離されたその場所は、子供たちだけの聖域だった。彼らの楽しみは、きらきら光る雲母を探したり、どんぐりを拾い集めて背比べをさせたり、そして何より、そこに息づく小さな生き物たちを観察することだった。

「あ、見て! アリの行列だ。食べ物運んでる」
たつるが地面を指差すと、しげるとさとるも屈み込んでその小さな働き者たちを見守る。誰が言うでもなく、三人はその行列を跨ぎ、踏みつけないようにそっと歩いた。

「この神社の生き物は、神様のお使いだからね。殺したりしちゃいけないんだよ」
さとるが、おばあちゃんから聞いたという話をすると、しげるとたつるはこくこくと頷いた。捕まえたカナブンも、しばらく手のひらの上でその感触を楽しんだ後は、必ず「またな」と言って空に放してやるのが、彼らの間の暗黙の掟だった。神社のひんやりとした空気は、命の尊さを肌で感じさせてくれるようだった。

その日も、三人はいつものように境内で遊んでいた。夏の名残の蝉の声が、秋の訪れを告げる虫の音に混じり始める頃だった。穏やかで、満ち足りた時間。

しかし、その聖域の静寂は、乾いた土を踏みしめる無遠慮な足音によって、唐突に破られた。

「おーい、お前ら。こんなとこで何やってんだよ」

声の主は、一つ年上のつぐだった。近所の子供たちの間ではお山の大将として君臨し、その乱暴な振る舞いは誰もが知るところだった。つぐの後ろには、いつも数人の子分が影のように付き従っている。だが、その日は一人だった。

つぐは、三人が集めているどんぐりを蹴散らし、にやにやと笑った。
「くだらねぇことやってんな。もっと面白いことしようぜ」
「面白いことって?」
しげるが警戒しながら尋ねる。つぐが言う「面白いこと」が、ろくなことではないのを経験上知っていた。

案の定、つぐは地面を這う一匹のてんとう虫を指差し、言った。
「虫がいっぱいいるじゃんか。殺そうぜ。どっちが多く殺せるか、競争だ」

その言葉に、三人の顔から血の気が引いた。神聖な場所での殺生。それは彼らが固く守ってきた、そして守らなければならないと信じてきた掟だった。
「だ、だめだよ! 神社の虫は殺しちゃいけないんだ!」
一番気弱なたつるが、震える声で言った。しげるもさとるも、強く頷いた。

つぐは、そんな三人を鼻で笑った。
「はぁ? 神様? いねーよ、そんなもん。いるなら今すぐ出てこいってんだ」
そして、お気に入りのさとるのほうに向き直ると、その頬を思い切り平手で打ち据えた。

パァン!と乾いた音が境内に響く。

叩かれたさとるは、何が起きたか分からないという顔でつぐを見上げ、やがてその目にみるみる涙が溜まり、わっと泣き出した。
「さとる!」
しげるがかっとなってつぐに掴みかかったが、体格の違う二年生には敵わない。あっという間に地面に押さえつけられ、背中に砂利の痛みが食い込んだ。

たつるは、泣きじゃくるさとると、押さえつけられて呻くしげるを前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。足が竦んで動かない。

そんな三人の姿を、つぐは心底軽蔑したような目で見下ろした。
「だっせぇの。だからお前らはダメなんだよ。虫一匹殺せねぇ弱虫が」

嘲笑と共に、つぐは足元に目をやった。そこには、秋の訪れを告げるように、美しい声で鳴いていた一匹のこおろぎがいた。

「いいか? 虫なんてな、こうやって殺すんだよ!」

ぐしゃり。

つぐの汚れたスニーカーが、容赦なくこおろぎを押し潰した。命が潰える、嫌な音がした。つぐはさらに、ぐりぐりと二、三度かかとを擦り付け、足をどけた。

そこにはもう、美しい音色を奏でていた虫の姿はなかった。黒い体液と、無残に砕けた足や羽が、土にこびりついているだけだった。

「な? 簡単だろ?」
つぐは勝ち誇ったように笑った。しかし、しげるも、さとるも、たつるも、その顔を見ることができなかった。ただ、地面にできたその黒い染みを見つめ、言いようのない恐怖に全身が震えていた。

シン…と、あれほど騒がしかった虫の声が、ぴたりと止んだように感じられた。
ご神木の大きな影が、まるで巨大な何かがこちらを覗き込んでいるかのように、濃く、長く伸びていた。

第二章:聞こえるはずのない音

その日を境に、つぐの周りで奇妙なことが起こり始めた。

最初の異変は、その夜に訪れた。自分の部屋で寝ていたつぐは、耳元で響く音に目を覚ました。

リィィィ…コロコロコロ…リィィィ…

こおろぎの鳴き声だ。秋だから、外で鳴いているのだろう。そう思って、つぐは布団を頭まで被った。しかし、音は小さくなるどころか、ますます大きく、はっきりと聞こえてくる。まるで、枕元で、いや、耳のすぐ側で鳴いているかのようだ。

「うるせぇな!」
つぐは苛立って布団を剥ぎ、部屋の中を見回した。しかし、こおろぎの姿などどこにもない。窓も閉まっている。それなのに、鳴き声は止まない。それも、一匹や二匹ではない。何十匹、何百匹ものこおろぎが、一斉に鳴いているような、耳をつんざくような大合唱だった。

つぐはその夜、ほとんど眠ることができなかった。

翌日、学校に行っても異変は続いた。給食の時間、配膳されたカレーライスを口に運ぼうとしたつぐは、スプーンの上で黒く動くものに気づいた。それは、こおろぎの足だった。
「うわっ!」
思わずスプーンを落とし、ガチャンと大きな音が響く。クラスメイトたちが一斉につぐを見た。
「どうしたの、つぐ君」
先生が心配そうに声をかけるが、つぐは答えることができない。もう一度カレーの皿を見ると、そこには普通の人参やじゃがいもがあるだけで、虫の足などどこにもなかった。

その日の放課後、つぐは一人で家に帰っていた。いつもなら子分たちとつるんでいるが、寝不足と奇妙な出来事のせいで、誰かと一緒にいる気になれなかった。

ふと、電信柱の影に、誰かが立っているのに気づいた。

古びて色の褪せた着物を着た、腰の大きく曲がった老人だった。手足は木の枝のように細く、異様に長い。顔は深い皺に覆われ、目は落ち窪んでいてよく見えない。ただ、そこにいる、という存在感だけが異様だった。

つぐは気味悪く思い、足早に通り過ぎようとした。その時、老人がゆっくりと顔を上げた。その目は、まるで磨かれた黒曜石のように真っ黒で、大きく、そして光を全く反射していなかった。こおろぎの複眼を、そのまま人間につけたような、不気味な目だった。

老人は何も言わない。ただ、その真っ黒な目で、じっとつぐを見つめている。
そして、その口元が、かすかに動いた。

カサ…カサカサ…

何かを咀嚼するような、乾いた音がした。

つぐは恐怖に駆られ、夢中で走り出した。家まであと少しの距離が、とてつもなく遠く感じられた。後ろを振り返る勇気はなかった。ただ、背中に突き刺さるような視線と、あの乾いた咀嚼音だけが、いつまでも耳について離れなかった。

家に駆け込むと、母親が「どうしたの、そんなに慌てて」と声をかけた。
「じ、じじいが…変なじじいが…」
「おじいさん? どこに?」
母親が玄関から外を覗いたが、そこには誰もいなかった。夕暮れの道が静かに広がっているだけだ。

「気のせいよ。早く手を洗ってきなさい」
母親はそう言って台所に戻っていった。つぐは、自分の言ったことを信じてもらえなかったことに苛立ちながらも、心のどこかで安堵していた。あれは気のせいだ。疲れているだけだ。

しかし、その日からだった。つぐがどこへ行こうとも、視界の端に、あの老人の姿が見えるようになったのは。

学校の廊下の突き当たりに。公園の滑り台の下に。帰り道の曲がり角に。

そして、その老人は、日に日に、つぐとの距離を縮めてきていた。

第三章:黒い染みと土の匂い

つぐの異変は、しげるたちの目にも明らかだった。あれほど威張り散らしていたお山の大将は、見る影もなくなっていた。いつも何かに怯えるように周囲をキョロキョロと見回し、些細な物音にもびくりと肩を震わせる。顔色も悪く、目の下には隈がくっきりと刻まれていた。

最初は「いい気味だ」「バチが当たったんだ」と囁き合っていたしげるたちも、日に日に尋常ではなくなっていく彼の様子に、次第に気味の悪さを感じ始めていた。

ある日の休み時間、教室でつぐが突然叫び声をあげた。
「来るな! こっちに来るな!」
つぐは誰もいない教室の隅を指差し、椅子を振り回して暴れた。クラス中が騒然となり、先生たちが駆けつけてきて、つぐは保健室へと連れて行かれた。

しげる、さとる、たつるの三人は、その様子を遠巻きに見ていた。
「…なあ、つぐ君はいったいどうしちゃったんだろう」
たつるが不安そうに呟く。
しげるは腕を組んで黙っていたが、さとるが青ざめた顔で、震える声で言った。
「…あの時踏み潰した…こおろぎの、祟りなんじゃ…」

その言葉に、しげるとたつるはハッとした。神社の境内。ぐしゃりと潰された、あの黒い染み。ぴたりと止んだ虫の声。あの時の、肌を粟立たせるような嫌な空気を、三人は同時に思い出していた。

つぐの衰弱は、誰の目にも明らかになっていった。大好きだった給食の揚げパンにも手をつけず、彼の体からは、常に微かに土のような、湿った匂いがするようになった。そして、彼の腕や首筋には、奇妙な黒い染みがいくつも浮かび上がっていた。それはまるで、潰れた虫の体液が皮膚に染み付いたかのようだった。

「このシミ、なんだよ! 消えねぇんだよ!」
つぐはある時、泣きじゃくりながら自分の腕を擦っていた。しかし、洗っても擦っても、その黒い染みは消えるどころか、ますます濃くなっていくように見えた。

そしてつぐは、しげるたちに懇願するように言った。
「お前らにも見えるだろ!? あのじじいだよ! こおろぎじじいが、ずっと俺を見てるんだ! 笑ってるんだよ!」

こおろぎじじい。つぐがそう呼ぶ老人は、今や彼のすぐ傍まで迫っていた。つぐが言うには、授業中、机の隣に立っていることもあれば、夜、ベッドの足元に座っていることもあるという。そして、いつもあの黒い目でじっと彼を見つめ、口元でカサカサと音を立て続けているのだと。

しかし、しげるたちには、そんな老人の姿は見えなかった。つぐが指差す先には、何もない空間が広がっているだけだ。彼らに見えるのは、何もない場所に向かって怯え、叫ぶ、哀れな少年の姿だけだった。

そのうち、つぐはほとんど学校に来なくなった。

ある晩、しげるは夢を見た。白髭神社の境内に、つぐが一人で立っている。彼の周りには、数え切れないほどのこおろぎが集まり、一斉に鳴いている。その鳴き声は次第に大きくなり、悲鳴のように聞こえ始めた。つぐは耳を塞いでその場にうずくまる。

すると、神社の暗い本殿の奥から、ゆっくりと、老人が現れた。腰を曲げ、細長い手足を引きずるようにして、つぐに近づいていく。そして、うずくまるつぐの背中に、そっと手を置いた。

その瞬間、つぐの体が、まるで土に還るかのように、ぐずぐずと崩れ始めた。

しげるは悲鳴を上げて飛び起きた。全身にびっしょりと汗をかいていた。窓の外では、秋の夜風がヒューと音を立てていた。

最終章:空蝉

つぐは、ぱったりと学校に来なくなった。最初は風邪か何かだろうと誰もが思っていたが、一週間が過ぎ、二週間が過ぎても、彼は学校に来なかった。あれだけ教室で暴れたのだから、しばらく休むのも無理はない。クラスメイトたちは次第に彼の不在に慣れ、やがて誰もつぐの話題を口にしなくなった。

しげる、さとる、たつるの三人も、彼のことを忘れたふりをしていた。だが、心のどこかでずっと引っかかっていた。

ある日の放課後、三人は遠巻きに、つぐの家の前を通ってみた。大きな門構えの立派な家。しかし、すべての雨戸は固く閉ざされ、人の気配が全くしなかった。まるで、家全体が息を潜めているかのようだ。そして、表札が外されていることに、さとるが気づいた。

決定的な噂を耳にしたのは、それから数日後のことだった。たつるが、母親と近所の人との立ち話で聞いたという。
「…つぐ君の一家ね、夜の間に引っ越していったんだって…」
病気の息子の療養のためだとか、ご主人の仕事の都合だとか、理由は様々だったが、どれもはっきりしない。ただ、誰もが口を揃えて言うのは、あまりに急で、誰にも挨拶ひとつない、まるで夜逃げのような引っ越しだったということだった。

つぐは、いなくなった。あの乱暴で、いつも威張っていた少年は、蝉の抜け殻のように、ただ噂だけを残して、この町から消えてしまったのだ。

その日、三人は吸い寄せられるように白髭神社に来ていた。
境内の空気は、以前のような静けさを取り戻している。ご神木は変わらずそびえ立ち、時折吹く風が笹の葉を揺らす音だけが聞こえる。

だが、三人の心は晴れなかった。以前のように無邪気に笑い、駆け回ることはもうできなかった。神社の木々の影が、本殿の暗がりが、何か得体の知れないものの気配を孕んでいるように感じられてならなかった。かつて純粋な好奇心で見つめていた生き物たちに、今は言いようのない「畏れ」を感じてしまう。その小さな命の向こうに、何か計り知れない存在の視線があるようで、目を合わせることすら憚られた。

三人は、つぐがこおろぎを潰した場所にやってきた。土の上にできていた黒い染みは、いつの間にか雨や風に流されたのか、もうどこにも見当たらなかった。

その時だった。しげるが、ふと自分の足元に、一匹のこおろぎがいるのに気づいた。

黒く艶のある体。長い触角。じっとして、こちらを見ているかのようだ。

しげるは、息を飲んだ。そして、ゆっくりと、その場を後ずさった。さとるもたつるも、しげるの視線の先にいるこおろぎに気づき、顔を青ざめさせた。

彼らは黙って踵を返し、逃げるように石段を下り、鳥居をくぐろうとした。

その、瞬間。

ひゅう、と一陣の風が境内を吹き抜けた。そして、どこからか、風に乗って、あの声が聞こえた。

リィィィ…コロコロコロ…

それは、ただのこおろぎの鳴き声だったのかもしれない。秋の夕暮れには、よくあることだ。

しかし、三人の耳には、それはまるで、暗い神社の奥で“何者か”が満足げに喉を鳴らしているかのように、不気味に、そして不吉に、響き渡ったのだった…。