
獣道の石狸
これは知人の池田さんがお爺様から聞いた話です。
あれは昭和御代が始まってまだ間もない頃。池田さんのお爺さんが若かったころの頃の話でございます。お爺さんは村でも評判の腕利き猟師でしてな、若さも手伝って、日がな一日、山を駆け回っておりました。
その日も、お爺さんは獲物を追って、いつもは踏み入らぬ山の奥深く、古びた獣道へと迷い込んでおりました。鬱蒼と茂る木々が陽の光を遮り、昼なお暗いその道は、湿った土と苔の匂いが立ち込め、気味の悪い静けさに満ちていたと申します。
しばらく進んだ道の傍ら、ふと、古びた石像が目に入りました。高さは膝丈ほど。風雨に晒され、輪郭も曖昧になっておりましたが、丸い腹を突き出し、どこか人を食ったような笑みを浮かべた、紛れもない狸の像でございました。
「なんだぁ、こんな所に気味の悪い…」
若かったお爺さんは、その不気味さに苛立ちを覚えたのか、あるいはただの若気の至りであったのか。獣道の真ん中に鎮座するその石像が邪魔に思え、何の気なしに、履いていた地下足袋のつま先で、ごつんと横腹を蹴り倒してしまったのでございます。
石像は、ごろん、と乾いた音を立てて横倒しになり、嘲るような笑みを浮かべたまま、傍らの笹藪の中へと転がり落ちていきました。その瞬間、ざわり、と周囲の木々が一度に揺れ、生暖かい風がお爺さんの首筋を撫でていったそうでございます。しかし、お爺さんはそれも山の気まぐれだろうと、大して気にも留めず、その日は山を降りました。
異変が始まったのは、その晩からでございました。
夜中、厠に起きたお爺さんは、縁側で奇妙な音を耳にします。
— カリ、カリ…カリ… —
まるで、小さな獣が爪で板の間を引っ掻いているような音。そっと障子を開けてみても、そこには月光に照らされた庭があるだけで、獣の姿などどこにも見えませぬ。気のせいか、と床に戻るのですが、またしばらくすると、今度は家の周りを、ぱたぱた、ぱたぱたと、何者かが走り回るような足音が聞こえてくる。まるで、お爺さんの寝ている部屋の周りを、ぐるぐると回り続けているかのように…。
そんなことが、幾晩も続きました。
眠れぬ夜が続き、お爺さんの顔からは血の気が失せていきました。日中の猟にも集中できず、獲物を逃してばかり。村人からは「どうしたい、池田の若い衆。まるで狐にでも憑かれたような顔だぞ」と心配される始末。
そして、ある晩のこと。
いつものように真夜中に響く足音と引っ掻く音に耐えかね、お爺さんが「うるさいわ!」と怒鳴りつけた、その時でございます。ぴたり、と全ての音が止んだかと思うと、今度は天井裏から、赤子のような、しかしどこか年寄びたような、気味の悪い声で、くすくすと笑い声が聞こえてきたのです。
あまりの恐怖に、お爺さんは布団を頭まで被り、ただただ朝が来るのを待ちました。夜が明けて、恐る恐る布団から這い出すと、部屋の中は特に変わった様子はございません。しかし、左の腕に、妙な熱っぽさと痛みを感じたのでございます。
見ると、左腕の二の腕に、まるで指で強く押されたかのような、五寸ほどの大きさの青黒い痣が、ぽつりと浮かび上がっておりました。
その痣は日増しに色を濃くし、じくじくと熱を持ち始めました。そして何より不可解なのは、夜、痛みで目を覚ますと、その痣がまるで呼吸でもするかのように、僅かに盛り上がったり、萎んだりしているように見えたことでございます。ある時など、月明かりの下で、その痣の形が、まるで笑う狸の横顔のように見え、お爺さんは声も出せずに震え上がったと申します。
これはいよいよ尋常ではないと、お爺さんは両親に全てを打ち明けました。話を聞いた父親は顔を真っ青にし、すぐに隣町の山の上にある、高名な寺の住職に助けを求めることを決めたのです。
住職は、お爺さんの顔を一目見るなり、そして問題の左腕に目を落とすなり、深くため息をつき、静かにこう言ったそうでございます。
「…山のものを、随分と怒らせたようじゃな。若さゆえの過ちとはいえ、これは業が深い。狸は執念深いからのぅ」
住職はお爺さんを本堂に座らせると、厳かな読経を始めました。りん、と澄んだ錫杖の音が響き、線香の香りが立ち込める中、お爺さんの体は鉛のように重くなり、意識が遠のいていったと申します。
どれほどの時間が経ったでありましょうか。ふと意識が戻った時、お爺さんは本堂で横になっておりました。あれほど熱く、脈打っていた左腕の痛みは、嘘のように消え失せておりました。
住職は傍らで静かにお茶を啜っており、疲れた顔のお爺さんにこう告げたそうです。
「…憑き物は、なんとか祓うた。じゃが、お主の腕に食らいついた執念はあまりに強く、その痕だけは、わしの力でもどうにもならんかった。それは、お主が山のものを侮った戒めとして、一生背負っていくがよい」
住職の言葉通り、痛みと熱は消えたものの、左の腕には、まるで古地図の染みのような、青黒い大きな痣だけが、くっきりと残っておりました。
それからというもの、お爺さんの身の回りで怪異が起こることは二度とありませんでした。
…しかし、私が子供の頃、夏に縁側で涼んでいると、お爺さんは、決まってその左腕の痣を、苦虫を噛み潰したような顔で、ゆっくりとさすっているのでございました。そして、山の方からひときわ大きく梟の鳴き声が聞こえたりすると、びくりと肩を震わせ、まるで何かを恐れるように、固く目を閉じるのでした。
あの痣は、ただの痣ではなかったのでしょう。今でも、お爺さんの腕の中で、あの獣道の石狸が、嘲るような笑みを浮かべて、静かに息を潜めているのかもしれませぬ…。