
僕がまだランドセルを背負っていた頃、通っていた小学校で奇妙な噂が流行っていた。その噂は、湿った雑巾のようにじっとりと僕らの心にまとわりつき、放課後の教室の隅で、ひそやかな声で語り継がれていた。
噂の怪人「カマキリ男」
「カマキリ男」の噂だ。
それは、久住町3丁目の、古びた信号機が一つだけある交差点に出没するという。両手には草刈り用の大きな鎌を持ち、背中はまるで重い荷物を背負い続けているかのように丸まっている。そして何より異様なのは、その顔だった。顎が鋭く尖り、輪郭は逆三角形。その小さな顔には不釣り合いなほど、ギョロリとした巨大な目玉が二つ、まるで獲物を探す昆虫のように、絶えずあたりをうかがっているのだという。
「昨日、隣のクラスのやつが見たらしいぞ」
「嘘だろ、本当にいるのかよ」
「夜中にあの交差点を通ると、カシャ、カシャって鎌を擦り合わせる音が聞こえてくるんだってさ」
噂は尾ひれをつけ、まるで生命を得たかのように僕らの日常に侵食してきた。僕らは恐怖しながらも、その存在にどこか惹きつけられていた。心臓が、古びた振り子時計のように不規則なリズムを刻むのを感じながら、スリルという名の蜜を舐めていたのだ。
恐怖の肝試し
夏休みが間近に迫った、ある蒸し暑い日の放課後だった。僕と友人のタカシ、そしてケンジの三人は、校庭の隅にある鉄棒にぶら下がりながら、いつものようにカマキリ男の話をしていた。
「結局、誰も直接は見てないんだろ?ただの作り話だよ」
強がるケンジの言葉に、一番臆病なタカシが青い顔で反論した。
「でも、火のない所に煙は立たないって言うじゃないか…」
「じゃあ、確かめに行くか?今から」
僕の、自分でもなぜ口にしたのかわからない一言が、その場の空気を凍らせた。それは冗談のつもりだった。だが、一度口から飛び出してしまった言葉は、もう取り消せない。僕らは互いの顔を見合わせ、引き下がれない状況に追い込まれてしまったことを悟った。夕暮れのチャイムが、まるでこれから始まる恐怖の儀式の開始を告げるファンファーレのように、空に響き渡っていた。
僕らの足取りは、罪悪感を練り込んだガムのように重かった。久住町3丁目の交差点に近づくにつれて、心臓は薄いガラス細工のように軋み始め、生暖かい風が首筋を撫でるたびに、背筋が凍るような感覚に襲われた。
交差点は、まるで世界から切り取られたかのように静まり返っていた。錆びたガードレールが夕陽を浴びて鈍く光り、古びた街灯が頼りなげに点滅を繰り返している。人気はなく、時折通り過ぎる車のヘッドライトが、僕らの長い影を地面に引き伸ばしては、すぐに闇の中へと消していく。
「…やっぱり、何もいないじゃないか」
ケンジが、安堵と失望が入り混じった声で言った。タカシもこくこくと頷き、僕も肩の力が抜けるのを感じた。
その時だった。
悪夢との遭遇
カシャリ。
金属と金属が擦れ合う、乾いた音。それは、交差点の向こう側、古いアパートの壁の影から聞こえてきた。僕らは息を呑み、音のした方を凝視した。
影が、ゆっくりと動いた。ぬるり、とアスファルトの上に滲み出すように現れたのは、紛れもなく「カマキリ男」だった。

噂通りの、異様な姿。月光を背負い、猫背で佇むその男の背中は、まるで巨大な昆虫の翅のように見えた。両手に握られた鎌の刃が、点滅する街灯の光を吸い込んでは、冷たい銀色の息を吐き出している。
そして、男がゆっくりとこちらを向いた。
逆三角形の顔。そのほとんどを占める、巨大な二つの眼。それは、暗い夜空に浮かぶ二つの不気味な月のようだった。感情というものが一切抜け落ちた、ただそこにあるだけのガラス玉のような瞳が、僕らを的確に捉えていた。
「ひっ…」
タカシの喉から、引き攣ったような音が漏れた。静寂が、深海の水圧のように僕らを押しつぶそうとする。時間が、粘度の高い液体のように引き伸ばされ、僕らの思考を麻痺させた。
カシャリ、カシャリ。
男は、鎌を擦り合わせながら、一歩、また一歩とこちらへ近づいてくる。その動きは、まるでゼンマイ仕掛けの人形のようにぎこちなく、人間離れしていた。関節が、錆びついた機械のように軋む音が聞こえてくるようだった。
「に、逃げろ!」
誰が叫んだのか。我に返った僕らは、もつれる足を必死に動かし、一目散にその場から逃げ出した。背後で、カシャ、カシャ、という音が、恐ろしいほどの速さで追いかけてくる。振り返る勇気はなかった。ただ、アスファルトを蹴る自分の足音と、ぜえぜえと喘ぐ友人の息遣いだけが耳にあった。
どのくらい走っただろうか。商店街の明るい光が見えた時、僕らは泣きながらその場に崩れ落ちた。互いの無事を確認し、震える肩を抱き合った。だが、あの交差点から追いかけてくる金属音は、いつの間にか聞こえなくなっていた。
今も消えないトラウマ
あれから数十年が経ち、僕は大人になった。久住町も再開発が進み、あの古びた交差点は、今では近代的な十字路に姿を変えている。
だが、僕は今でも、あの場所を車で通ることさえできない。あの交差点に差し掛かるたび、背筋に冷たい鎌が突き立てられるような錯覚に陥り、バックミラーにあの巨大な目が映り込むのではないかという、拭い去れない恐怖に襲われるのだ。
カマキリ男は、本当に存在したのだろうか。それとも、子供のころに見た悪夢だったのだろうか。確かめる術はない。ただ、あの乾いた金属音だけが、今も僕の耳の奥で、錆びつくことなく鳴り響いている。